前田龍之祐(麻枝龍)「近代とSF」の感想

だいぶ前に買って積んでいた、江古田文学109号の、前田龍之祐「近代とSF――スペキュレイティヴ・フィクション序説」という評論を読みました。

4434302515
江古田文学109号: 創作の「いま」を見つめる 宗田理 再録「雲の果て」


前田さんは、「表現者クライテリオン」という雑誌で書評をよく書かれており、さらに「山野浩一論――SF・文学・思想の観点から」という卒業論文もネットで公開されています。(この論文はマジおすすめですよ)

麻枝龍というペンネームからもわかるように麻枝准ファンであり、それだけで信頼できるというものです。

「近代とSF」で取り上げられている三島由紀夫と山野浩一は個人的に注目している作家で、両者の接点や相違、文学とSFのアプローチの違いなどにはずっと興味がありました。

論の前半は近代SF成立の概観であり、これはこれで興味深いものの、ええい本題の三島はまだか、とやや焦れったかった。(いや、本当は三島は本題じゃないのかもしれないけど)
しかし、この論文はあくまで序説であり、後のSpecfic(スペキュレイティブ・フィクション)を語る上で必要な過程であり、前田さんの言う「純文学に対する不満」の裏面にきっと流れているであろう、「SFに対する不満」の表明という一面もあるように思われる。

前田さんが笠井潔さんの言葉を引用して言う、「聖=幻想」と「俗=現実」の対立とは、まさに三島の文学テーマそのものとも言える。
自分は知らなかったんですが、やはり山野浩一の問題意識とも共通するようです。
それは岡本太郎やバタイユ、花田清輝、澁澤龍彦といった同時代人とも通底するものがあるでしょう。
ほら、時代的にヘーゲルの弁証法的発展(止揚)が注目されてて、二項対立をいかに乗り越えるか、みたいのがあったんでしょう。

前田さんご自身は、「純文学とSFの融合」や「人間を描くSF」というような、手垢のついた単調な見立てには慎重であるように見受けられる。
山野の論を引きながら、以下のように所見を述べておられます。

 〈聖と俗〉の緊張を孕む〈ネオゴシック=スペキュレイティヴ・フィクション〉の小説とは、近代(都市)を生きる人間がみずからの「底」を問い返す時はじめて書かれ、読まれうる。「カフカ以後の〝不条理〟」や「アイデンティティとしての底」を再び見つめなければならない現在、少なくとも私はこの緊張を与えないSFには関心をもつことができない。

江古田文学109号・178P



そうであれば、場としての「都市」を巡る考察が必要であり、おそらく三島の中心的な芸術観からは外れることでしょう。
三島は、親類の永井荷風と比較しても都市に対する意識は稀薄であり、それはおそらく彼が関東大震災が発生した二年後に生まれ、それ以前の東京を知らないことと無関係ではない。
東京大空襲で人為的に焼け野原になった経験もあることから、歌舞伎や能楽は愛好するものの、伝統を担う主体(場)としての東京という意識はあまりなかったのではないか。

三島にとって伝統の中心とは言うまでもなく国体たる天皇であり、とくに東京に居を移した北朝ではなく吉野にあった幻の南朝であり、万葉集や古今和歌集といった王朝文学であり、源氏物語や枕草子の風俗であり、せいぜいが江戸時代に書かれた葉隠や本居宣長や平田篤胤らの国学あたりまででした。(戯作や浮世絵を日本の伝統と本気で捉えたかは疑問です)

明治以降における「都市」とは、三島にとっては味気ない東京の姿ではなく、理想化された古代アテナイやローマでした。
三島は数多くの作品を書いてはいますが、そこにアクチュアルな現実都市としての東京の姿は、やはり稀薄なように自分には思われる。
三島の数少ないSFである「美しい星」も、場としての都市の意識が稀薄なため、Specficとしては不十分なように感じる。

4101050139
美しい星 (新潮文庫)


都市とは一体なんでしょうか。
たとえ未来の月面が舞台でも、そこに三人も集まればいまの東京と変わらぬ人間同士や構造物との緊張関係が生まれます。
都市とは、人と人が作りし物を巡る業の結晶です。
そしておのずからそこには「時間」つまり歴史が生じ、その因果を歪な形であれ引き受け発展するのが都市の特徴であります。
(我らが田舎は歴史を無自覚に引き受けていても、発展が遅い!)

その都市をSpecficの重要な立脚点として据えるのであれば、おのずからそれは創作者や批評家の現代社会(都市)を巡る社会科学的な考察の確かさが問われることでしょう。
前田さんが保守派を自認されているのかどうか自分は知りませんが、「表現者クライテリオン」という保守系雑誌で書評を担当しているのも、今回の序説に続く、来たるべき本論への足場固めだとすると納得がいきます。

進歩的な都市の見方(あえて雑に言うとアメリカ流の科学信仰SF)に、保守的な都市の見方(これも雑に言うとイギリス的Specfic)を対置させ、そこに流れる歴史(伝統)を人びとがどう引き受けるかという「アイデンティティとしての底」の問題や、現実世界にも通じる「人と物質と時間の業」などという問題を据える。
カフカ以後の〝不条理〟とは、そういう土壌の上に逃れようもなく現れてくるのではないか。

スペキュレイティヴ(思弁的)とは、時間や社会の流れを一方向にとらえる単線的な進歩主義の見方ではなく、未来と現在と過去、そしてフィクションと現実、聖と俗とを往来する、ダイナミックで深い視座のことを指すのだと思います。

おそらくSpecficには文体をどうするかという問題があり、それは三島の文学上の問題意識とも共鳴すると思ので、いつかそこも論じて欲しい気がしています。

え? そんなのお前が書けって? 僕は学がないから無理です。