石原慎太郎が亡くなった。
通常、僕は人のことを大抵「さん」とか「氏」をつけて呼ぶのだけど、石原慎太郎の場合はそのまま名前だけを書いてみたい気持ちに駈られる。
それはきっと、自分のなかでは彼はもう三島由紀夫や安部公房といった、歴史の中の文学者のカテゴリーに入っているから。
ただし、石原文学が三島文学や安部文学と肩を並べる、世界的レベルにあると言っているのではない。
が、だからといって石原文学を無視するのではなく、
ちゃんと問題視することが必要なのではないか。
今回はそれについて、少しく自分の考えを書いてみます。
近ごろの文壇(というものの実態を自分は知らないけれど)からの評価がほぼ
黙殺といったことからもわかる通り、石原慎太郎の政治的賛同者であったとしても、石原文学を高くみない者はこれまでにも多くいたし、いまもいる。
石原裕次郎のお兄さんという立場から書かれた『
弟』のようなベストセラーを生んだし、『
「NO」と言える日本』や『
天才』といった本も売れていたりするから、その点を評価する人はいる。
しかし、小説はほとんど評価されていない。というか、
だれも読んでいない。彼の文学を評価する数少ない声として、『
石原慎太郎を読んでみた』の評者である栗原裕一郎・豊崎由美の両氏や、
石原文学集の解説も務めた中森明夫氏や、短編全集を出版した幻冬舎社長の見城徹氏、『
作家の値うち』で
褒め殺しかというぐらい異常なほど石原文学を褒めた福田和也氏のような人たちなど、いるにはいる。
しかし圧倒的に少ない。『
太陽の季節』でデビューしてから六十年以上という気の遠くなるような活動期間があり、都知事時代も晩年もほとんど間を置かずに小説を発表し続けていたというのに、読まれていないのだ。
※2022年2月5日追記。きょう、西村賢太氏が急逝されたというニュースを見ました。そういえば氏も文壇では数少ない石原文学支持者でした。一方で、芥川賞や三島賞やすばる文学賞などといった文学賞の選考委員を長く務めていたことから、ちゃっかり文壇の重鎮のようなイメージもある厄介な人でもある。
むろん政治家という権力者であったことは言うまでもない。
「さまざまな顔を持つ、矛盾に満ちた鵺のようにとらえどころのない巨人」というのが僕が持つイメージなのだけど、世間ではきっと「
外国人差別に始まる問題発言を振りまく右翼・タカ派の高圧的なジジイ」ぐらいの見方がされている。
政治家としての彼のことはここでは置いておいて、文学者としての石原慎太郎を語ろうとしても、なにしろ作品数が多すぎてどれから読んでいいかわからない。
絶版も多く、過去の作品はほとんど書店で売っていないから、せいぜい上記のベストセラー本ぐらいしか手に取られない。
戦後社会に大反響を巻き起こしたという太陽の季節を読んでみたら、思いのほか若書きで青臭くてつまらない。
なんでこんなのが評価されてるの? となる。
しかし、
石原文学は凄い(ものがある)と僕は思っている。
まことに悔しいけれど、
常人にはとても真似できないことをしている(ものもある)と思うのだ。
なにが凄いって、基本的にこの人、
構築する気のないもののほうがずっとおもしろい。ふつう、小説というものは自身の考え(思想やテーマなど)をうまく伝えたり、ストーリーを波瀾万丈にするために、いろいろと構築的に
盛ろうとする。三島由紀夫なんてまさにそう。
しかし、石原慎太郎の場合は、これがとにかく下手だ。長編小説にろくなものがない――と言い切ってしまうほどには自分はまだ多く読んではいないけれど、長くなればなるほど
本人が途中で飽きてきたり、エンタメのつもりなのかやけに通俗に流れたりしてつまらないものが多く目に付くのも確か。
しばしば揶揄される、本当にこれ現代か? みたいな
大時代的な登場人物の役割語とか、
ルー大柴みたいな唐突な横文字は、読んでいるこっちが気恥ずかしくなってくる。
よく石原慎太郎は悪文だと言われるが、
悪文のときはまだマシで、長編になるとやけにすっからかんなものが増えてくる傾向がある。
晩年に売れた『天才』も、
石原慎太郎のイタコ芸 田中角栄になりきって一人称で書く、みたいなよくわからないことをやっていて、まぁ文章は比較的読みやすくはあるけれどぜんぜん深みがなくておもしろくない。
あれじゃ石原文学の良さも、田中角栄という怪物のこともまったくわかりゃしない。
石原文学の真骨頂は短編にあると思う。
それも構築的でない、『
わが人生の時の時』に代表される、
本人の実体験や妄想が入り混じった私小説ふうのものがいい。
確か中森明夫氏だったように思うけど、石原文学は思想を描こうとするとだめで、徹底して行動を描く作家なのだと書いていて、それはなるほどと思ったけれど、自分は彼のことを「
残骸をばらまく作家」だと思っている。
(最良の)石原文学は、なにかを積みあげたり膨らませたりすることなく、「こうだった」「ああだった」「こうなった」という過去に起きたことを、身も蓋もなくどこか壊れた形=残骸のまま書き殴ってみせるものではないか。
石原作品を読んでいてきっと多くの人がとまどうのは、とても「
欠落」が多いことだ。
文章がまずとても不親切で、なにやら石原自身が主人公のようだけれど詳しい説明がない。
志賀直哉の小説にまま見られる、「
この主人公はなにして食ってんだ?」みたいな疑問が石原文学にも出てくる。書いてる本人は「俺が主人公だとほのめかしてんだからわかるだろ」と思ってるのかもしれないけど、いや後の時代から読むとこのとき石原慎太郎が都知事やってたのか政治浪人やってたのかわかりませんって。
書き手自身が内容をあまり整理せず、推敲もしてなさそうに書き殴るように想い出の「残骸」を撒いていく。
実体験もあるだろうけど、おそらく妄想もかなり入っていて、自身でもあまり虚実の区別がついていないのではないか。
……ひょっとしたら実際はとても巧緻に考え抜かれているのかもしれないけど、石原文学の最良のものはそう読者に思わせてしまうような、整えられていないノンシャランとした魅力がある。
志賀直哉の『
暗夜行路』を評して「
常軌を逸した居丈高さ」と言った人がいるみたいだけど、石原文学にもそれは当てはまる。
「だってこうだったんだ」「文句あるなら読むな」とばかりに自分の妄想を含む体験の残骸を押しつけてくる。
一般に、うまい文章とは目の前に情景が浮かんでくるようだとか、まるで読者が作中世界に入っていったかのように五感で感じとれるだとか、文のリズムが心地いいだとかいう「効果の持続」を指すものが多いだろうけど、石原文学にそんなものはない。
夜空に間歇的に流星が走るように、瞬間瞬間の煌めきがあるだけだ。読んでいるときはさして情景がイメージできないのに、しかし読み終わったあとになぜか一瞬のある感覚(まさに
人生の時の時)が体の芯に焼きつく感じがする。
ビジュアルイメージがあっても、それが石原慎太郎が意図したものかどうかはわからない。
内容はよく覚えていないけれど、とにかく独特な感覚が残っているから、また読み直したくなる。
過去の想い出というのは、たいてい美化されて整えられるものだけれど、石原文学の場合はどこか
美化しているようで著者自身の手で壊していっているような手応えがある。
一見華やかな想い出も、もう取り返しのつかない痛みをともなうものとなって、読む者の胸を締めつける。
それは、著者や読者が年をとって単におセンチになっているから、というのもあるかもしれないけれど、どうしてこう残骸の形にまで無惨に踏みしめなければ書けなかったのだろうと思わされる。
こういう文章は一見、とても素人くさいようで、むしろ素人ほど真似できない。
たとえばTwitterやYouTubeの動画のような、短文で箇条書きふうな、より整理された、
推敲というよりも編集された言葉を書いたり読んだりして慣れきっている人たちは、ここまで堂々と開き直れない。
まず受け手を意識してしまって、表現の勁さを捨ててしまう。
行動する作家という点で、ヘミングウェイや開高健と比較する人がいるかもしれないけどそれらとはタイプが違っていて、チャールズ・ブコウスキーや、リチャード・ブローティガンに器質的に近いかもしれないけど、彼らよりさらに無造作に感じられるところがいい。
アバウトっぽさでは武者小路実篤と比肩するし、中原昌也さんや、木下古栗さんが戦略的に荒々しくやろうとしていることを、ナンセンスに寄せずに真顔でやっている。
草野原々さんのデビュー作とか、この
身も蓋もない書きっぷりの良さは石原慎太郎がSF作家に転生したのではないか(
当時まだ石原慎太郎は生きてるけど)と思わせる勢いがあって実におもしろかった。(物語的には草野さんはすごく構築的だし、最近は文体的にも別の方向へ行った気がするけど)
この欠落を抱えた、自分のことなのにどこか無関心のような筆致は、村上龍さんの『
限りなく透明に近いブルー』を始めとする初期作品とも共通するものがあって、たしか石原慎太郎もどこかで村上作品を傑作だと絶讃していた。
凡人では容易に真似できない文体なのは間違いない。晩年の丸くなった石原慎太郎の文章しか知らない人は、ぜひ『わが人生の時の時』を読んでほしいし、きっと
国会審議中に暇で暇でしょうがなくて妄想したんだろうなぁというような短編『院内』とかも最高ですよ。
石原文学にしては珍しく、
なんでこうなった? という不条理なストーリー展開がばっちり決まっている。
最初に本を読むなら、その『院内』も入っている『
生還』をKindle判でもいいので読んでみるといいかも。
初期作品では『完全な遊戯』とか、おいおいこれでいいのか、という身も蓋もない書きっぷりがいい。これ、少しでもサービスしようとしたり、文学的にしようとしたら負けという作品なんだと思う。
『亀裂』とか『化石の森』は後でもいいと思う。『太陽の季節』や『処刑の部屋』なんかもよく代表作とされるけど、自分はべつにそれほどとは……。
ここまで石原文学の文体的な面を取り上げたけど、当然ながら本来はその内容にまで踏み込まなければいけない。
どうして石原文学が、満たされない残骸の形で想い出を書かなければならなかったのか、とか。
が、長くなったし、
自分もよくわかってないから、とりあえず今回はここまで。
一つ、石原慎太郎にまつわることで思い出深いのは、二十年近く前に新海誠監督が『
雲のむこう、約束の場所』を発表したとき、
石原都知事がそれを観て泣いて絶讃した、という逸話なんですね。
当時自分は学生で、新海作品はまさに俺たちの世代に向けたアニメ作家がついに出てきた! という感じで昂奮しながら追ってたんだけど、石原都知事が褒めているのをネットで知ってかなり意外に思った。
いまちょっとネットを調べたら、それと関係ありそうな
当時の東京国際アニメフェアを取材したページが見つかって、石原都知事がアニメを褒めていることを確認できたけど、映画を観て泣いたという情報はちょっと見つからなかった。
どこで知ったんだっけな。たしかに涙ぐんでたとか、そういう情報があった気がするのだけれど。
僕の記憶違いかもしれないし、褒めたというのも都知事の立場からのリップサービスにすぎないかもしれない。
表現規制でとかく評判の悪い人だし、僕も
非実在青少年なんざ噴飯物だと思って大いに反撥したけど、『雲のむこう、約束の場所』を観て泣いたということがもし事実なのだとしたら、石原慎太郎という人を読み解く一つのヒントになる気はします。
まぁ、後年『
俺は、君のためにこそ死ににいく』を手がけてる人だからべつにありえなくはないだろうけど、でも若いときからの石原慎太郎の思想といまいち接続できない気がしているんですよ。
三島がそれを観て泣いたっていうのならまだわかるんですけど、その三島の思想をどこか冷ややかに見ていた節のある石原がそういう部分にビビッドに反応したというのは、なんだか不思議な気はする。