コロナを巡る状況について

入院中ちょっと時間ができたということもあるので、このコロナ状況下で考えたことを書いてみます。
これまでも間接的に自分の感じている社会への違和を書いてきましたが(これとかこれ)、今回はわりと具体的です。

新型コロナの騒ぎで、国論が二分三分されるような状況が長く続いています。
僕としては、実はそれはとても良いことだと思っています。
もちろんコロナで多くの方が亡くなったのは残念ですが、それとはべつに、コロナを巡る議論の状況について書きたいのです。

おそらく戦後に持ち上がったイシューで、これほどまでに国全体ないし世界全体をも巻き込む争論が起きたことなんてなかったのではないか。
日米安保、公害、憲法改正、米軍基地、拉致、郵政民営化、政治家の汚職……ほかにもいろいろあるだろうけど、この二年間ほど連日連夜テレビでも巷間でも一つの話題が継続して話し合われたことはなかった。

日本人はディスカッションが下手だと言われていて、和を大切にするあまり言挙げを嫌うみたいなイメージがありますが、こういうときに議論が起きるのは民主主義国として健全だと思います。
もっとも、テレビのみならずYouTubeやSNSなどでも、ある側の意見を封じ込めようとする動きが露骨にあったりするので、世界的にもフェアに議論できているのか大いに疑問ではありますが。
そこはともあれ、みんなコロナを巡る状況については一家言を持ってはいる。

時代とともに人びとの興味が多様化していると言われていて、「俺は俺の好きなようにするぜ。好きなところへ行ってしたいことをするぜ」みたいな生き方が良いとされやすいですが、やはりこういう世界的なクライシスのときは個人主義だけで乗り切れるものではない。
なにせ世界のどこへ行ったってウィルスはあるし、全体主義のおそれは欧米各国でも顕在化しているからです。
好きな場所へ行ったり、好きなことをしようとすること自体が封じられるのが現況なわけで、こうなると個人主義はただのよるべない脆弱さしか持ち合わせなくなる。

個人が力を行使しようとすれば、一人ではなく周囲との連帯が必要になってくるのですが、しかしこれについても一歩まちがえると集団ヒステリー的な傾向を帯びてくる。
全体主義はなにも政府主導でおこなわれるものだけではない。

全体主義のおそろしいところは、ふだんであればリベラリスト(自由主義者)を自認する人たちが、積極的に自由のために自由を制限しようとしだすことがある点です。
名前は挙げませんが、日本でも感染対策の大義名分のもとに、リベラルな社会学者や憲法学者などが積極的に人びとの行動を抑制しようとする発言をしていました。

いわく、「自由な生活を取りもどしたかったら、いまは我慢すべきだ」「人に迷惑をかける自由はない」などなど。
僕はテレビのニュースやバラエティをもう二十年ぐらいまともに見てないのですが(アニメですら最近はネット配信が多いし)、きっといまでもアナウンサーや芸能人たちは、「感染対策の強化を!」とさかんにテレビで言っているのでしょう。
でも、当の芸能人たちは、スタジオでマスクをしているのでしょうか?
なんかアクリル板とかで仕切っているようですが、あれが本当に効果があるなんて信じてる人はまさかいないよね。
カメラが回ってないところではふつうに接近して喋ってるんだろうし。
近ごろの研究ではむしろ、飛散したウィルスがアクリル板についたり換気が悪くなるから逆効果なのでは、とも言われてきているようです。

ロケとかもどうしているんでしょうか。
なにやらさんざん「ステイホーム」の掛け声が芸能人やYouTuberなどから聞かれましたが、そういう彼らはずっと家に閉じこもっているんでしょうか。
ふつうに外で食ってる番組とかやっているようだけど。

そもそも人に対して、飼い犬にでも命令するかのごとく「ステイホーム」と言うなんて無礼な気がします。
「俺はステイホームに徹するよ」と自分に対して言うのならまだしも、正義の側に立っていると思い込むと、平気で人に命じられるようになってしまう。(たぶん当人は命じているという自覚はないのでしょうが)

そういえば、日本医師会の会長が国民に自粛を呼びかけながら、裏で政治資金パーティーをしたり寿司屋でデートしたりしてたことがありましたね。
最近でも、ロックダウンまでやって国民に行動制限を強いていたイギリスのボリス首相が、官邸でノーマスクパーティーを開いたりしてたことがバレて国民から総スカンを食らいつつあるようです。
そのせいかどうかわかりませんが、イギリスはロックダウンとかの感染症対策は取り止めるそうです。
まぁ、イギリスは前もそうやって撤廃したあとにまたロックダウンとかやってるので、いつまでそれが続くかはわかりませんが。

いや! 自分はちゃんと感染対策をして注意してるから外に出ていいんだ!」と言う人がたまにいるようですが(医師会会長もそう言ったそうな)、それはきっと外に出たいと願う人みんなが言いたいことでしょう。
外に出てコロナに感染してしまった人たちも、自分たちなりにできる範囲で注意はしていたことでしょう。
「いや、そいつらの対策が甘かったんだ! 自分は●●をしているから、勝手に遊んでいる連中とは違う! だから自分はこれをしてもいい!」というのは、自分を例外に置きたいだけの勝手なマイルールというものです。
そんなに万全な対策があるんならぜひ教えて欲しい。ノーベル賞ものだと思うのですが。

コロナを巡ってどういった対応が正解なのか、素人の僕には断定的には語れませんが、自分にできないことを他人に強いるな、ということは言えると思います。
他人に自粛を押しつけるのであれば、まず自分がそれをしなければダブルスタンダードとそしられても仕方ない。

この、「自分にできないことを他人に強いるな」というテーゼは、おそらく自由を尊重する多くの人が賛成してくれると思うのだけど(日本は隠れリバタリアンが多いと思う)、そう言いながらもやっぱりそれに反したことをしてしまうのが人間というもので。

たとえば、このコロナ状況下でさんざん言われている「弱者を見捨てない」という言葉も、果たして自分にそれができているのかという悩みはあります。
「先進国ならば弱者を救って当然。経済的困窮者には政府による給付を」という意見については僕も大筋で賛成で、これは個人で寄附とかして助けるには限界があるんだから(みんな貧乏だし)、政府が国債を発行して個人に十万円給付をしたり会社を支援するというのは必要だと思う。
政府でなければマクロ的に人を救えないんだから、どうか政府よ動いてくれ、というわけですね。
そこでケインズが持ちだされたりMMT(現代貨幣理論)が唱えられたりする。

しかし、コロナ感染対策などについてまで、「老人や持病を持った人を助けるために、みんなあれをやれ、これをやれ」という方向になるとどうだろう?
公衆衛生のために人びとの行動を制限したり、なにかを強制したりするということです。

そういうことをおっしゃる方々は、本当に自分で弱者を助ける覚悟はあるのでしょうか?
たとえばここに、腎臓が健全に機能していない透析患者がいるとします。
一週間に三回ほどのペースで医療機関へ行って毎度数時間もの血液透析をするか、腹膜透析といって毎日自分でお腹に透析液を数回入れ替えなければ生きていけません。
しかも、それをちゃんとやったところでやはり体が弱いことには変わりなく、心筋梗塞や脳卒中で亡くなったり、感染症で亡くなる人が多いのです。
ただの風邪でも重症化して命の危険にさらされることもありますし、新型コロナでも当然そうです。

「そうだ! そういう透析患者を守るためにも、みんなあれをやるべきだ、これをやるべきだ!」とおっしゃるのであれば、あなたにしかできない直接的な方法があります。

あなたの腎臓を透析患者に提供すればいいのです。

人間はみな腎臓が二つついており、健康な人であればそれを一つ提供しても問題なく過ごせます。
近ごろの腎臓移植の技術はかなり進んでいて、レシピエント(患者)とドナー(提供者)の血液型が違う場合などでも、昔と比べて良好に移植がおこなえるようになりました。
理想を言えば双子間の移植が一番適合しやすく、次いで普通のきょうだい間の移植が適合しやすいそうですが、年齢や性別や血液型の違う赤の他人でも大丈夫なんですね。

腎臓を提供してもらえれば、患者は透析から離脱できてQOL(生活の質)が向上しますし、安定しづらかった体内のミネラルや水分の調整や、変動しやすい血圧などもコントロールできます。
もちろん移植を受けても完全に健康な人と同じかといえばそうではなく、免疫抑制剤を飲み続けなければならないため引き続き感染症などには気をつける必要がありますが……透析を受け続けるよりは体の調子がずっと良くなるため、予後は良好となります。

再生医療の研究が世界中で進められていますが、いまのところ腎臓はまだiPS細胞でも作れていません。
角膜や心筋などと違って、腎臓はかなり複雑な臓器なので、将来的に作りだせるにしても一番最後に成功する臓器になるのではないかと言われています。
点滴治療だけで腎機能が回復する可能性が指摘されているMuse細胞のようなものもありますが、中程度の腎不全ならまだしも、透析を受けなければならないほどの末期腎不全に効果があるかどうかはまだ不明なようです。
最近、特殊な処置をほどこした豚の腎臓を脳死患者に移植したところ、ちゃんと機能したという報告がアメリカであり(BBCの記事)、一つの希望となっていますが、まだ実用化には時間がかかるでしょう。

結局、透析から離脱するには誰かの腎臓が必要なわけですが、脳死患者から提供される献腎移植はとても少なく、全国に三十万人いると言われる透析患者を救うにはまるで足りません。

身内から提供を受けようにも、近親者は患者と同じ透析へつながる持病を抱えている場合も少なくないため、簡単に一つ腎臓を提供するわけにもいかない。

そうなると、やはり「あなた」の健康な腎臓を提供してもらう必要があるのです。
まさかこれを政府が強制するわけにはいきませんよね。
どっかの大国みたいに、少数民族を捕まえて強制的に臓器を抜く、みたいなことを肯定する人はいないでしょう。

あくまでもあなたの意志でそれをしなければならない。
日本は先進国なんでしょう? 平等な社会を作るのが正しいんでしょう? 弱者を救えと、あなたは政府や社会に言ってきたではありませんか。
あなたの腎臓を提供できるのは、あなたしかいないのです。
そうすれば透析患者を一人助けることができるのだから、やって下さいますね?
え? 生体移植は近親者以外はできないことになっている? それは日本移植学会の倫理指針にそうあるだけで臓器移植法にも書いてないし、法律で決まっていたとしても法改正すればいいじゃありませんか。実際、アメリカなどでは赤の他人が自発的にドナーとなって無償で腎臓を提供する事例はいくらでもありますよ。

……という具合に、もし透析患者から直接言われたらどうでしょうか。
もちろん、そんな意地悪なことを言ってくる患者なんていないでしょうが、もし自分がドナー側だったら答えに窮してしまうでしょう。

こうしていまもクリニックで入院を続けて、日本の手厚い医療保険制度に助けられまくっている自分が言うのもアレですが、当たり前のごとく「弱者を助けろ」と主張してもいいものなのか、という自問はしてみてもいいかもしれません。
弱者を助けたいという気持ちは正しい。しかし、そのために行動する主体は誰?
国がなんとかすべき? 然り、公助として国はできることをするべきだろう。
社会も動くべき? 然り、共助として、社会でできること、融通できるところは手を差し伸べ合うべきだろう。
ではあなたは?

誤解しないで下さいね。僕はなにも「だから弱者を救うな」と言っているのではない。
自分を棚に上げて物を言わざるを得ないこともあるという罪深い現実を直視しながら、それでも僕たちはどんなことが言えるのだろう? どんな行動ができるのだろう? ということを一緒に考えて欲しいのです。
正しい答えをだすのは簡単ではない。綺麗事だけを吐く偽善者になるのは簡単だ。しかしそれを考え続けることは、やはり大きな意味があると僕は信じています。

この二年間でこうした疑問がわくようになったのは、僕にとって大きな経験でした。
これは霊感ですが、これから先、創作分野において魅力的な作品や作家がどんどん世に出てくるのではないかと思います。
いますぐというわけではないかもしれませんが、多少のタイムラグがあっても五年先、十年先には、今回の騒動で考えるきっかけを得た人びとが、新しい視点で物を産みだしていくと予想します。

そして自分もその一人になれたら、と願っています。