最近、思い立って星新一の作品を読み返したりしています。
生涯で千作以上の作品を残した人だから、当然まだ読んだことのない作品も豊富にあって、勉強になります。
そこで、評論というほどのことではありませんが、思ったことを少し。
星新一作品については、よく「発想」や「オチ」がすばらしいと称えられます。
しかし自分は彼の魅力は、必ずしもそこにはないと思っている。
星は、しばしばフレドリック・ブラウンと比較されるように、SF的なショートショートを多く作っていて、たしかにその種の作品は「発想」や「オチ」や、それらを含めた「プロットの完全さ」が重要だと言われます。
単に短い作品なら、星以前に川端康成や中河与一なども「掌編小説」と銘打って書いていますが、それらは叙情性の強いものが多かった。
そういう文学畑からの掌編小説に対し、星やブラウンのショートショートはSF的な奇抜な発想をもとにしており、独自性を放っているのですが、そこだけに注目してしまうと真の魅力を見誤ってしまう気がするのです。
単に奇抜な発想というだけなら、星以降の作家たちもすぐれた発想の作品を多くものしていて、むしろ星がいた時代以降のテクノロジーの発達を知っているぶんだけ、よりビビッドなアイデアが多く見られます。
たとえば、個人的に
渡辺浩弐さんは現代最高のショートショート作家だと思っていて、「
1999年のゲーム・キッズ」を始めとしたゲーム・キッズシリーズなどは本当にすばらしい。
僕の世代にとってはおそらく避けては通れなかったであろう講談社の「
ファウスト」という不定期雑誌にも渡辺さんはショートショートを発表していて、ほかのどの作家の作品よりも短いのに、どの作品よりもインパクトがあっておもしろかった。
星新一の影響を受けながら、よい意味で作品がもっとどぎつい。
自分が十八歳ぐらいのときにその存在を知って、本当にショックを受けて、僕の勧めでうちの家族がみんな渡辺浩弐を読むようになったぐらいです。
(余談ですが、渡辺浩弐さん、なぜかSF業界ではあまり言及されているところを見たことがないのですが……ゲーム業界の人やタレントだと思われてる? 以前、僕が出版社で担当氏と打ち合わせしていたとき、「渡辺浩弐ってすごい作家ですよね」となにげなく言ったら「渡辺浩弐?
ああ、大竹まことのPCランドに出てた人?」と言うので、そういうタレント的な活動を渡辺さんがしていたと知らなかった僕は「いえ、作家の渡辺浩弐ですよ?」と返して、お互いの渡辺浩弐像が一致せずに疑問符を浮かべ合ったことがあります)
しかし、渡辺浩弐作品と星新一作品とでは、おもしろさのポイントが違う。
単に時代的な違いに留まらず、星新一が生涯で一度も星雲賞を受賞できなかったことも考えれば、当時から星のSF的部分(発想やオチ)が必ずしもSFファンから全幅の評価を受けていたわけでないことがわかる。
(まぁ、渡辺さんも星雲賞とってないんだけど。単にショートショートは不利ってことだけなのかもしれない)
それでは星作品の魅力とは一体どこにあるのか?
それは、
文体の特性とストーリーが結びついた「作品内世界(空間)が拡張したり収斂したりする感覚」と、「そしてこうなった」式のドラマなのだと僕は思います。
それを説明するには、まず文体のことから話さないとけない。
一般的に、小説の表現は「時間の流れの操作」が重要とされます。
これは難しいことではなく、「間をとる」ということや「テンポよく読み進ませる」などに代表されるテクニックですね。
このブログでも以前、
ステープリング・テクニクスとか、
トリプルアクションとか、さまざまなテクニックを実践例を引用しながら解説しました。
星新一は、この手の「時間の流れの操作」を、わかりやすい形であまりしない。
読書中の感覚は、「同じペースで淡々と時間が進んでいく」という、「
時間の等速性」とも呼べる感じが強い。
もちろんこれについてはきっと膨大な論証が必要で、「そもそも小説中における時間の流れとはなにか? どうやってそれが決まるのか?」ということを論じなければならないのですが、
めっちゃ長くなるので今回は割愛。ここはひとまず印象論のレベルでなんとなく納得してもらえればいいのですが、テクニック的なことを一つ指摘すると、星新一作品は
パラグラフ(段落)がストイックである、ということに、その時間の等速性がよく顕れている気がする。
たとえば、星新一の代表作の一つに、「
おーい でてこーい」という作品があります。
(以下、解説の都合上、この作品の文章を引用したりストーリーにも触れるので、まだ読んだことのない人はぜひ先にショートショート集「
ボッコちゃん」を買ってこの作品を読んでみて下さい)
「おーい、でてこーい」
と叫ぶ声を聞いた。しかし、見上げた空には、なにもなかった。青空がひろがっているだけだった。彼は、気のせいかな、と思った。そして、もとの姿勢にもどった時、声のした方角から、小さな石ころが彼をかすめて落ちていった。
しかし彼には、ますます美しくなってゆく都会のスカイラインをぼんやり眺めていたので、それには気がつかなかった。
――新潮文庫「ボッコちゃん」25P目の「おーい でてこーい」より――
「おーい でてこーい」の最後のほうの文章を引用しましたが、ここでは改行に注目してみて下さい。
この作品のオチである、「声のした方角から、小さな石ころが彼をかすめて落ちていった。」という部分が、独立したパラグラフとして設定されていません。
ふつうの作家であれば、ここは改行して独立して際立たせたいと考える人も多いと思います。
映画でいうと、カメラが切り替わって、空から石ころが落ちてくるショットを挟む、というイメージですね。
映像におけるカットの切り替えもそうですが、小説でも改行を挟むことで、見る人の体感時間や印象に変化が生じます。
しかし星は、この重要なところを、あえて改行せずに前の文に続けてさらっと書いています。
これはあくまで一例にすぎませんが、星作品はこういうふうに改行で目立たせるということに対しては慎重であるように思えます。
だいたい小説家というのは気分で改行する人も少なくないのですが(
いやマジで)、星新一はちゃんと考えているような気がする。
本人に訊いたわけじゃないから、あくまで「気がする」という程度なのですが、たとえばロングセラーとなっている木下是雄「
理科系の作文技術」で指南されているように、パラグラフというものは本来一つの話題でまとめて、次の話題に移るときに改行するべき、というようなストイックさを星作品から感じることがある。
あくまで内容によってパラグラフを決めるべきで、改行によってテンポを早めようとか、動きをつけようとか、そこだけ特別に際立たせようというようなことではない。
改行は一つの要素にすぎませんが、ほかにも台詞と地の文とのあいだに時間的変化を設けないという点や、体感時間が間延びしやすい内心の声が控えめである、描写の前景化や後景化ということをあまりせずフラットに書く、という点などと含めて、星新一の文体にはやはり「時間の等速性」が特徴としてある気がする。
「
いたずらに時間をためない・急がない・もぐりこまない」という具合に。
これは前述した渡辺浩弐さんの文章にも、星新一の弟子筋にあたるほかのショートショート作家にもなかなか見られないものです。
では、この時間の等速性を備えた文体にはどんなメリットがあるのか?
二つあると思います。
①時間操作による「縦の連動」が抑制されたことにより、作品内世界の拡張感覚が強調されるということ。②通常の「だからこうなった」式のドラマツルギーとはべつの、「そしてこうなった」式のドラマツルギーを成立させられる可能性。さて、ここでようやく星新一の魅力の話になります。
またここで「おーい でてこーい」を例にとりますが、この物語は、地面に出現した直径一メートルほどの穴を村人たちが発見するところから始まります。
そこからさまざまな人がやってきて、穴を巡る騒動が大きくなっていくわけですが、僕はこういう部分に星作品の大きな魅力があると思うのです。
どんどん作品世界(空間)が広がっていく感覚が、気持ちよいぐらいに伝わってくる。
SF的には「どんどん騒動が大きくなる」というのは鉄板ではあるのですが、多くの場合、そこによけいな表現――主人公の心情であったり、時間的操作であったり――が加わることで、かえってテンポが悪くなったり、夾雑物のせいで世界の拡張感が減じられてしまう。
時間の等速性を備えた文体だからこそ、「世界が拡がっていく」という感覚を強く感じることができるし、最後に「小さな石ころが彼をかすめて落ちていった。」という文で、拡がった世界が一気に収縮し、読者のほうへ問題が差し向けられるという感覚が強くなる。
これはきっと作品の尺とも関係していて、「おーい でてこーい」がもし長編だったらきっといまみたいな名作の評価は得られなかったと思います。
長編って、説得力を増そうとしたりキャラを立たせようとしたりしてよけいな説明をぐたぐだしてしまいがちで、そのぶん世界がぐいぐい拡がっていく感覚が減じられてしまうことが多い。
ひょっとしたら小説全般そうなのかもしれませんが、とりわけSFというジャンルは長編より短編のほうが良い作品が多い気がしています。
以前の記事で、リアリズムの話題と絡めてドラマツルギーについて私見を書いたことがあります。
言うなれば、物語の要素を「だからこうなった」という関係でつなげていけば、それがドラマティックに発展していきやすいのだと思います。
これは因果関係の連鎖ですから、大きな流れとなり、「説明」しやすくなります。
同時に落とし穴もあり、「説明しやすいようなモティーフや物語展開、表現しか用いなくなる」というおそれがあります。
読者の立場から、しばしば「この作品、おもしろいはずんだけどいまいち印象が弱いな」と感じることがあります。
その理由はさまざまでしょうが、「物語の流れが良すぎるがために、読者の印象に残りづらくなった」という面もありそうです。
上記のものを便宜上「
だからこうなった」のドラマツルギーだとすると、以下のようなものは「
そしてこうなった」のドラマツルギーと言えます。
純文学では、物語を縦につなげていく「だからこうなった」式の展開はそこそこに留め、「そしてこうなった」と横につなげていくやりかたが多いように思います。
因果関係に根ざした縦の流れよりも、並列的な横の広がりを作り、そのぶん各ディテールを詰めていくことで安易な「自動化」から逃れようとしているのです。
星新一の作品は、「だからこうなった」の物語もありますが、「そしてこうなった」の物語のほうに、名作が多いような気がします。
「おーい でてこーい」も、よく因果応報がテーマだと言われますが、じつはわかりやすく「だからこうなった」でドラマがつながっていない。
冷静に考えれば、地面に空いた穴に物を捨てていくと、それが空から降ってくるというのはおかしい。
その穴がSF的なワープホールだったのでしょうか?
あるいは、穴が地球の反対側まで貫かれていて、捨てたものが向こうの穴から飛びだして人工衛星みたいに地球の周りを巡って、やがて落ちてきたとか。
実際にそういう現象が可能かどうかはともかく、最後にそういった説明文を入れれば、わかりやすく因果応報となって「だからこうなった」のドラマとなります。
が、それではおもしろくないですよね。
なんの説明もなく、「そしてこうなった」式のドラマにしたからこそ名作になったと思うのです。
そして、説明のないその展開を読者に「そういうものだ」と納得させられるのも、前述した文体の特性があるからではないか。
通常の作家が書く、時間の流れを操作する文体は、いわば「
縦のつながり」を強く読者に意識させ、「だからこうなった」という因果律を用いたドラマと相性がよい。
一方、星新一の文体は時間の等速性があるため「縦のつながり」をあまり読者に意識させず、それに代わって空間の拡張と収斂が際立つため、「
横への飛躍」を特徴とする「そしてこうなった」式のドラマが綺麗にハマる。
以上のように、星新一作品の魅力は、その文体に裏打ちされた「空間の拡張と収斂によって成立可能なドラマ」にあるのではないかと思うのです。
設定の奇抜さやオチばかりに目を奪われていると、この空間の暴力性についていく快感を忘れてしまう。
すでにオチを知っている星作品をもう一度読み返したいと思えるのは、やはりこの空間がワッと拡がっていく感覚を味わいたいからで、それはほかの作家ではなかなか体験できないSF的な魅力だと思うのです。
そしてそれは、映画や漫画やゲームといったビジュアルをともなう媒体よりも、スピーディーな体験にできる可能性を持っています。
一枚の絵画を理解するだけなら当然視覚からのほうが速いですが、空間(世界観)の拡大を理解するという点においては、むしろ文章をきっかけとする想像力のほうが速い。
星新一作品をむさぼるように読みたくなるのは、この時間の等速性の文体による、逆説的な「速さ」にもあるのではないか。
そしてそれは、いまだ後進の者にとって開拓の余地を残す、ほかの媒体に比して小説が持ち得る大きな表現上の武器になるものだと思います。