ユニクロの新疆綿問題とか

ユニクロが新疆綿の扱いでいろいろ物議をかもしてますが、そういえば綿といえばジンバブエコットンというものがあったなぁと。

フルカウントという国内レプリカジーンズブランドがありまして、そこの売りがジンバブエコットンでジーンズを作ってるということなんですね。
ジンバブエコットンは、超長綿と言われる細く長い繊維が特徴で、そのために糸を甘撚りしてやわらかい生地を作ることができるのだとか。
いまはなきFree&easyとかでもよく取り上げられていた、アメカジ好きにはおなじみの知識です。
しかもジンバブエでは機械を使わず、昔ながら手摘みで綿を収穫している!

二十代のころの自分は、ふむふむなるほどこだわってるんだなぁ、と感心し、ずいぶんフルカウントのジーンズを買ったものでした。
実際はいてみると、最初のころは糊が利いていてふつうのジーンズとあまり違いは感じないものの、何度か洗濯していくうちにどんどん本来のやわらかさを発揮するようになり、色落ちも綺麗に水色に変わりながら縦落ちも楽しめる感じで、DENIMEともフラットヘッドともサムライジーンズとも違う、独自の魅力がありました。
たしか、1101を二本、1108を一本、1108の黒バージョンである1310を一本、それと型番を忘れたけどブーツカットを一本……チノパンツも買ったけどあれはジンバブエコットンじゃなかったんだっけな?

ただ、三十を過ぎたある日、ふと「そういえばジンバブエってハイパーインフレになってたんだよな?」と気づきまして。
リフレ政策やケインズ政策、最近はやりのMMTについて勉強した人なら大抵知ってると思うんですけど、よくインフレの議論になるとジンバブエのケースが持ちだされるんですよね。
日本はデフレだから公共投資や金融政策をおこなってインフレにすべきだ、と財政拡大派が言うと、「そんなことしてるとジンバブエみたいになるぞ!」と財政規律派が脅すわけです。

実際、ジンバブエはめちゃくちゃなハイパーインフレを起こしてまして、100000000000000ジンバブエドルなんていうオモシロ紙幣が作られちゃうぐらいの混乱をきたしました。
ただ、それは金融政策や公共投資のやりすぎの結果というより、独裁者ムガベが白人農場を強制徴収したことなどによる生産設備の破壊が大きな要因と言われています。

ハイパーインフレを起こしている以上、海外からすれば外貨を使って格安でジンバブエコットンを仕入れることができるわけで、これ、メーカーが堂々と「最高品質のジンバブエコットン!」と謳っちゃっていいものかしら、と疑問に思います。
「昔ながらの手摘みで収穫」というのも、べつに品質重視のこだわりからそうしているわけじゃなくて、貧乏だったり白人の経営者が逃げだしたりして農機が使えなかっただけなんですよね。

ハイパーインフレの国から格安でコットンを仕入れて、それを日本国内で生地にしてジーンズを作って一本あたり二万数千円で販売している、という構図なわけです
コーヒー豆やカカオ豆なんかも同様で、中南米やアフリカの農民(ときに児童も含め)を安く使って収穫させて、海外メーカーがそれを加工して製品にして何十倍もの値段で売っているわけです。
ベルギーチョコレートが国際的に有名ですが、どうしてカカオ豆がとれないあの国でチョコが発展したかというと、かつてコンゴを植民地にしていたりとアフリカに権益を持っていたため、アフリカ各地からカカオ豆を大量に仕入れることができたから発展したんですよね。(もっとも植民地のコンゴはカカオの栽培にあまり向いていなくて、ゴムを採らせていたらしいけど。逆らう黒人やノルマを達成しない黒人は手足をちょん切ったりして)

マルクス先生が見たら剰余価値の搾取だとブチ切れるんじゃないでしょうか。

ただ、ここら辺の商モラルって難しくて、それじゃフルカウントとか海外メーカーがコットンを買わなければいいかといえば、やっぱりそうなるとジンバブエの人たちは収入がなくなって困るわけで。
企業としては、ちゃんと互いに納得して契約してお金を払ってるんだから文句ないだろ、と言いたいでしょうし、それはそれで一理あると思います。

近年、「ちゃんと現地の生産者たちに相応のお金をあげようよ」というフェアトレードが推進されてますけど、これってあくまでも個々の企業の倫理に任されているので、強制的にフェアトレードをさせることはできない。
利潤を追求するのが資本主義社会なのだから、わざわざ儲けを少なくする方向に大幅に舵を切るのは難しいわけですよね。
消費者が安くコーヒーを飲めるのも企業が労働者から搾取している結果なわけだし。

ぶっちゃけ、顔すら見たこともない他国の労働者がどれだけ搾取されてたって知らないよ、というのがこれまでの世界でした。
ただ、インターネットの発達によって、これまで書いてきたようなことがどんどん世界に知られるようになり、とりわけスマホで撮影された現地の映像がYouTubeなどで拡散されるようになって状況が変わってきたように思います。
顔も見たことない赤の他人ではなく、血の通った人間の苦労が身近に感じられるようになり、人びとが考え直すきっかけになっているようです。

新疆綿の問題が取り沙汰されるようになったのも、そういう国際世論の変化と無関係ではないでしょう。
なにしろちょっと前までは、新疆綿といえばジンバブエコットンと同じように高品質の綿として有名で、だれもウイグル問題と絡めて批判なんてしていなかった。
僕もなんの疑問も持たず、十年ぐらい前に鎌倉シャツで新疆綿を使った300番手のシャツをパターンオーダーで何枚か作ってもらいました。(いまサイト見たら新疆綿使ってるって公表しなくなってるじゃん! 昔は自慢げに言ってたのに!)

いま自分が関心を寄せているのは、こういうメディアの発達とともに人びとの意識がどのように変化していっているのかということ。
そしてオールドメディアに属する小説が、そういう変化のなかでどんな力を発揮することができるのかということです。
短文投稿型のTwitterなり、編集多用のYouTuberの動画に慣れた人びとに、小説はどういう形で切り込んでいけばいいのか。
そこら辺の話はまたいずれ。