2016年の「僕だけがいない街」で
記事を書いてから、ずっと僕が
後方彼氏ヅラして追っている演出家、石井俊匡さんの初テレビ監督作品の1話が公開されました。
安里アサトさん原作、A-1 Pictures製作の「
86―エイティシックス―」です。
地上波で観られない人は、
ABEMAで期間限定無料配信しているから観るのです。
期待通りのすばらしい出来。1話としては満点でしょう。
SF作品の宿命で、設定や固有名詞が多く出てくるので、それを理解するのに最初はとまどうかもしれませんが、2話以降徐々に判明するはずです。
とりあえず、シンという少年が隊長を務める部隊を、レーナという女の子が意識同調させる無線みたいな技術で指揮する、というのがわかっていればOKかと。
人種差別を扱っている作品なため、演出的に対比がうまく使われていますね。
日常から戦闘への唐突な切り替えに代表される表現は、今後も出てくるでしょう。
シリーズ全体としては、メディアの違いによる物語の得意不得意の壁をどう乗り越えるかに注目しています。
公式サイトにあらすじが載っていてそこでも開陳されている設定ですが、この作品、「レギオン」という敵機は完全に無人のAIなんですね。
一方の主人公サイドは、公式には無人機となっているけど、じつは86と呼ばれる被差別民が乗り込んでいてレギオンと戦っているという設定です。
小説の場合、この設定ってすごくうまいんですよ。
どううまいかというと、敵サイドの事情を書かなくていい。ずっと
主人公サイドの視点だけ書いて物語が進められるんです。
こういうロボット物やミリタリー物の場合、ふつうは敵サイドまで書かなくてはいけない点で苦労します。
ガンダムやコードギアスが代表的ですが、味方サイドだけでなく敵サイドもいっぱいキャラをだして、「敵サイドの事情や目標」などもきっちり受け手に示さないといけない。
そのせいで登場人物が増えるし、尺もそっちに割かないといけなくなる。
しかし、アムロVSシャアの関係のように、敵味方にわかれて戦う者同士がそれぞれの国家や大義を背負って戦うところに最大のおもしろさがあるわけで、難しさとおもしろさは表裏一体なわけです。
ということは、86のように主人公サイドだけの視点で物語を進める作品だと、そのおいしい部分が表現できないってことになるんですね。
そこで人種問題を扱って、レーナとシンのいるサンマグノリア共和国内部の対立を描いて、そこをドラマの軸に使っているわけです。
小説の場合はこれでまったく問題ないんですよ。
対立するドラマの軸が戦争する相手でも同じ国家の内部にいる存在でも、ドラマの価値としては等価なんです。
これは、小説というメディアの最大の武器が、「
主人公(焦点化人物)の五感や意識を描写することにより、読者が主人公と半ば一体化して作中に入っていき、自分のことのように物語を体験できる」という点とも関係しています。
この体験型の楽しみ方は、じつは映像や漫画などでは難しい。
どんなにリアリティのある映像を作っても、「
スクリーンの向こう側の世界を眺めている」という視聴スタイルは変わらないからです。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「クローバーフィールド」のようなPOV(主観視点)で表現してもそれは変わらないはずです。
あくまでも視聴者はスクリーンの向こう側の世界を観ている。
86の世界設定は、小説というメディアにすごく合った設定だと思う。
専門用語が多くても、小説はあけすけなまでになんでも説明できるという大きな武器があるので平気なんですね。
映像の場合だと、映っている人物の容姿などは一瞬で伝わりますが、「この人物とこの人物はどういう関係なのか」とか、「この人物にはどういう過去があるのか」などという情報を表現するのに工夫がいるんです。
映像は時間芸術で、放っておいてもどんどん話が流れていってしまうから、そういう説明はスマートにやらないとつまらなくなっちゃうんです。
小説はスマートじゃなくていい。いったん物語を止めて、無粋なまでに説明しても、その内容がおもしろければちゃんと成立する。
(ただし、戦闘シーンのような、派手なビジュアルをともなわせてスピーディーにやりとりを進行させるものについては、小説は表現を苦手とします)
86の原作小説は表現として成功していますが、アニメで表現しようとすると難しさが出てくるはずです。
敵の兵士がいないということは、敵味方の人間ドラマが描けないことになる。
その一方で戦闘シーンはしっかり映像的に演出しなければいけないわけですが、小説と違って視聴者は外側から作品を眺めるわけですから、主人公サイドの緊張や恐怖などといった心情を主観的に伝えるのが難しい。
サンマグノリア共和国内の差別の問題とかを描くにしても、小説で書いたほうが民族間の対立の歴史だとか差別感情とかをねちねち表現することができる気がする。(自分が小説側の人間だからバイアスがかかってるのかも)
そこら辺のメディアの特性の違いを作り手がわかっていないと、いくら映像的に派手なシーンがあってもドラマとしておもしろくない。
なまじ映像的にアクションを派手にできるぶんだけ、そこに溺れてしまうとドラマの所在を見失いかねない。
小憎たらしい敵や、敵ながらあっぱれというような人物を戦闘で倒すからこそ爽快感や感動が生まれてくるので、血の通わない無人機をただ倒すだけではドラマ的に盛り上がらないはずです。
そこで原作小説では、あるべつの設定をつけて、戦闘においてもドラマ性が発揮できるようにしているのですが、そこを映像的に表現するとどうおもしろくなるか。
石井監督がそういう問題をどうクリアしていくのかに注目して観ていこうと思います。
あとレーナのガーターとか、そこら辺の
フェティシズムをどう表現するか。
いや、冗談ではなく、メカに対するこだわりとかそういう性的な癖とか、偏愛というのは表現者にとって大切なものだと思うのですよ。監督の資質が問われると思う。