「乳歯」2/3

乳歯 2/3

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 ロリコンに対してはなにを言っても許されるんだ。どんなに罵っても非難されない。
 試しにLGBTの活動をしている人たちに、ロリコンの権利もLGBTみたいに保護されるべきですよねって訊いてみるといいよ。きっとロリコンと一緒にされたくないものだから、こっち来るなって言ってくるさ。少女に手をだすなんて犯罪だ、それはビョーキだキチガイだ、みたいなことを堂々と言うやつもいるんじゃないか? 同性愛だって昔は病気や犯罪みたいな扱いを受けてたのにね。
 弱いものたちが、今度はさらに弱いものを叩いていく構図があるんだ。そういえばブルーハーツの歌詞にそんなのがたしかあったな。
「おにいちゃんかわいそう」
 僕? いや、僕はロリコンなんかじゃないけどね。LOとかは芸術的な観点から読んでるだけだし。児童エロチカってやつさ。
 となりにすわっている天使を見下ろすと、ワンピースの胸元の生地が割れて、ほのかに膨らんだ胸の先端が見えそうになった。僕は目をそらし、彼女の頭越しにもう一度窓の外を見た。
 電車はどこまでも進んでいく。山手線ならば次の駅まで二、三分だが、この電車はどこまで行っても次には辿り着かない。僕と彼女以外、だれもこの車両にやってこない。
 かわいそうなのはロリコンだけじゃないよ。社会的弱者っていうとさ、みんなすぐ老人や子供や女性のことを言うだろう。でもそれらはもう充分保護されてるんだよ。一番かわいそうなのは中年だよ。一人ぼっちのおじさんだ。チビとかデブとかハゲとかでさ、恋人もできずにずっと童貞のままのおじさんが一番かわいそうじゃないか。一体だれがおじさんを保護してくれる? 国や社会はまったく当てにならないだろ。女の子と手もつないだことのない四十四歳の男の気持ちを、一体だれがわかるっていうんだ。だれが慰めてくれるっていうんだ。みんな笑って後ろ指をさして馬鹿にしてくるだけじゃないか。
「おにいちゃんかわいそう」
 僕? いや、僕はそんなのじゃないけどね。こうしてきみと話しているし。
 僕は眺めていた車窓から視線を下げて、さりげなくまた天使の横顔を見やった。金糸のように繊細な長い前髪が左右に開いて、まるみを帯びたおでこがかわいく照っていた。僕は思わずそのおでこに口づけしたくなったが、どのタイミングでどうすれば自然にできるかわからなかったので、ただ横目でちらちらとうかがうことしかできなかった。
 それにね、と僕は続けた。
 世の中にはさまざまな理由で働けない人もいるんだ。よい学校に入れなかったとか、就活の時期にちょうど大恐慌が起きてしまったとか、人とうまく話せなくて面接に失敗したとか、やむをえない理由というのがあるんだよ。前歯が抜けてたりして歯並びが悪くて、笑うと人から馬鹿にされるから笑えなくなって、それで人に会うのが嫌になってしまうとかね。そういうのってあるんだ。
 人に会うのが嫌だったら家のなかにいるしかないだろう? 自己防衛だよ。でも世間では、それは自己責任だろって否定してくるんだ。引きこもりだ、ニートだ、子供部屋おじさんだって言ってね。だってしかたがないじゃないか! 前歯がないのは子供のときからなんだよ! ママがちゃんと治療させてくれなかったんだ、金がないとかで! あのババア!
「おにいちゃん、おちついて」
 落ち着いてるよ、僕は。ああ落ち着いてる。いつだって落ち着いてるんだ。
 僕は笑いながら肩をすくませて、手をぐーぱーと何度も握っては開いた。ばかに手のひらが湿っていて、掌紋の彫りが瞬いてよりくっきりと生命線が見えた。
 でも世の中にはそういう人がきっといっぱいいるんだよ。でもだれもそんな人を助けてはくれない。赤ん坊や老人やLGBTは保護されるのに、そういう恵まれない中年にはだれも手を差し伸べてくれない。
 お前はもういい歳した大人なんだから、ちゃんとしろって母親とかが言ってくるんだ。
「そうなんだね」
 そうなんだよ。
「ゆるせないね」
 許せないよ。
「やるしかないね」
 やるしかないんだ。
 僕は足もとに置いておいたデパートの紙袋を取り上げて膝に乗せた。
 爆弾を作るのはわりと簡単なんだ。原始的な黒色火薬は、木炭を十五パーセント、硝酸カリウムを七十五パーセント、硫黄を十パーセントの比率で混ぜ合わせればいい。でも硝酸カリウムを手に入れるのが面倒なのと、黒色火薬だとあまり威力がでないのがネックなんだ。だからANFO火薬を使う。硝酸アンモニウムと軽油を合わせたものでね。硝酸アンモニウムを化学肥料から取りだすやり方はYouTubeとかで海外の連中が解説してる。あとは雷管と起爆装置をどうするかだけど、あまり難しい話をしてるときみが眠くなっちゃうかな?
「うん、ねむくなっちゃう」
 天使がまた喉仏を見せて猫のようなあくびをした。が、今度は翼はぴくりとも動かなかったので、そのあくびは僕に調子を合わせるためだけの白々しさが感じられた。
 ――白々しい? そんなわけない。
 彼女は純粋なんだ。純粋に眠そうなだけなんだ。そうだろ?
「そうだよ、おにいちゃん」
 ふふ、そうだよね。
「そうだよ、おにいちゃん」
 ようするにね、この紙袋が爆弾ってこと。紙袋を二重にして内側でパーツを仕切ることで誤作動を防いでるんだ。袋の口がくるくるって巻かれてるだろう? だれかがこれを開けると、なかにつないだ紐が引っぱられて雷管が作動してドカン、ってわけ。シンプルだけど確実に作動するよ。周囲三十メートルは吹っ飛ぶんじゃないかな。
「すごい」
 だろ?
「すごいばくだん」
 そう、僕は凄いんだ。
「どこにしかけるの?」
 歌舞伎町。
「かぶきちょう」
 そう、あそこの歓楽街にこれを仕掛けるんだ。
「どうしてかぶきちょうなの?」
 だってあそこにはきみみたいな無垢な女の子はいないからね。
 歌舞伎町は日本最大の掃きだめだ。いるのは汚い大人たちばかりだろう? 性を売り買いしている穢れた連中ばかりさ。不潔な老人どもがなけなしの精子を放出するために札束を持ってやってくるような場所だろ。そこで働いてるビッチとかヤリチンもろとも、汚物はみんなこの爆弾で吹っ飛ばすんだ。
「このことはだれかにはなしたの?」
 まさか。この計画はきみにだけ教えるんだよ。僕が信頼できるのはきみだけだからね。
「ふふふ」
 天使が笑う。僕も笑う。
 ふふふ。
「ふふふ」
 ふふふ。
「ふふふ」
 ふふふ。
「ふふふ」
 うれしいな、きみはいつだって僕の話を聞いてくれる。僕のママみたいな存在だよ。
「まま? おにいちゃん、ままがすきなの?」
 いや、嫌いだよ、あんなの。歯の治療をさせてくれなかったせいで、僕は中学生のときから歯抜け妖怪とか言われてみんなから馬鹿にされてきたんだ。そのくせ、もっと勉強しろだとか働けだとか命令してきてさ。
 でも――と、車窓に映る流背のせわしない動きを目で追いながら、記憶を寸時過去へ巡らす。
 小学校低学年のころは楽しかった。
 まだ父親がいて、給料日のあとには決まって僕と母を近所のファミレスへ連れていってくれた。僕たちの精一杯の贅沢といえば、そこでふだん見ることのない料理をおなかいっぱいに食べることだった。わあコーンポタージュだ。ケチャップたっぷりのオムライスもある。グラタンのなかに入ってるマカロニってあのマカロニサラダと同じものなの? 僕はよくそんなことを言って二人を笑わせた。まだ歯が生え替わっていなくて、歯並びのことなんてぜんぜん気にもしていなかったあの萌黄色の日々。
 小学校四年のときに両親が離婚して、ちょうどそのころ乳歯も抜けきり、僕は変わった。
 あのころの楽しかった日々は、小さな歯とともに永遠に屋根の上と縁の下のかなたに失われてしまった。
「おにいちゃん、どうしたの?」
 べつに、ちょっとママのことを思いだしてただけだよ。
「――ばくだん、やりたくなくなった?」
 やさしかった天使の声が、急にどこかで聞いたことのあるような重いものに変わった。
「やるの、やらないの?」
 しわがれて影のついた、老婆の声。
 僕がさんざん嫌っていた、あの声。
 天使の翼が、威圧するように少女の背中で高々と広がった。純白だったその翼の端が、墨汁に浸されたように徐々にどす黒く染まっていくさまを僕は見た。
 やるよ、と僕は紙袋を強く抱き込んで、せかされるように尻で反動をつけてベッドから立ち上がった。
 ――目線の位置が高くなると、見える世界が一変した。
 いつの間にか僕は天使の電車ではなく、病室のなかに立っていた。
 眼下にあるベッドには、人工呼吸器などの生命維持装置につながれた老婆が横たわっている。
 くも膜下出血で倒れてから、ずっと意識を失ったままだ。
 ベッド脇に設置された脳波計のモニターに、患者の頭皮に貼った皿電極がキャッチした電位変動のグラフが刻まれている。脳波を示す波線の色は黒だった。そう、黒だ――僕はなぜかしら急に緊張してきて、息を詰めてその脳波計のモニターに見入った。
 ぴん、と疳の虫が起きたように脳波が一度跳ね上がった。それはいったんもとの律動的な小波にもどるものの、すぐに線全体がぶるぶると震えだし、やがて渾沌とした怒濤が画面に押し寄せてきた。
 黒い波は躁病的に四方八方へ躍りかかり、絶え間ないその奔流が折り重なって、子供がボールペンで落書きしたように画面全体がぐちゃぐちゃになってしまう。いまにもモニターから黒い線があふれ出てきそうだ。
 ――ママの顔だ。
 直観的に思った。ベッドに横たわってぴくりともしない老婆の表情が、その脳波計のモニターに黒い線となって映しだされているのだ。
 僕はおののきながら、ふと、東京駅で天使の電車を待つあいだ、足もとの点字ブロックで震えていた、ひっかき傷のような細い影の集まりを思いだした。
 あの不安を催させる黒い影は、この脳波計の動きにどこか似ていた。
「もうおとななんだから、つべこべいわずやるんだよ」
 どこからか、そんなくぐもった声が聞こえた気がした。それは天使の声のようでも、老婆の声のようでも、中年の男の声でもあるような気がした。
 いつの間にか脳波計の乱れは止まり、生命維持装置につながれた植物人間の淡々とした波線グラフにもどっていた。
 病室を出ようとドアを開けたところで、入れちがいの形で看護師の男が入ってきた。
「あ、ちょうどよかった。今後の治療の方針などについて先生が息子さんと話がしたいとおっしゃってるんですが」
 僕は抱えた紙袋で口元を覆い隠し、用事がありますからと答え、肩で看護師を押し退けるようにして廊下へ出た。

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