「乳歯」1/3

乳歯 1/3

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 きょうも僕の前にお気に入りの場所がやってきた。
 すうと音もなくすべり込んできた。
 巨大な金属の塊が徐々に減速していき、やがて5番線の決められた位置で停止する。
 車両がいくつも数珠つなぎになった電車だ。
 でも、ふつうの客は乗っていない。
 なかにいるのは人間でなく、純白の翼を生やした天使。
 ひとつひとつの客車に、それぞれ天使が暮らしているのだ。
 僕の前で静かにドアが開かれる。
 
 東京駅5番線・6番線ホーム。
 勝ち気な五月の陽は僕の視野に白い薄膜をかけ、世界の輪郭を陽炎のように揺らがせている。
 線路上空に張りだした駅舎の一部か架線のどこかにでも陽射しが引っかかっているのか、僕の立つ黄色い点字ブロックの周りにさっきからひっかき傷のような無数の細い影が不規則に震えていた。
 昼下がりのいま、山手線外回りと京浜東北線の南行が来るこのホームには大勢の人がいるが、5番線に天使の乗る電車がやってきてもみんなうつむいてスマホばかり見ている。東京の人間というのはどうしてこう判を押したみたいに個性がないのだろう。ポーズだけじゃなく、どれもこれも顔の造形までもちがいがない。ゆでたまごのような白く丸い顔に、わずかばかりの鼻骨の隆起や唇のふくらみ、眼窩のくぼみなどのおうとつがフォルムを形作っているだけで、細部がない。まるで自動車衝突実験で使うダミー人形をホームのあちこちに並べたみたいだ。
 彼らは天使じゃないから、ふつうの電車にしか乗れない。おじさんの腋臭やおばさんの香水であふれた、奴隷船より劣悪な箱にぎゅうぎゅうに押し込まれる、かわいそうな存在なのだ。
 僕は得意な気持ちで、眼前で口を開けている電車へと足を踏み入れた。
 やあ、きたよ。
「またきてくれたね、おにいちゃん」
 いつもの天使が笑顔で迎えてくれた。
 この座席車のなかほど、本来ならば乗客が吊り革につかまって立ち並んでいるであろうスペースには、人の行く手を遮るように大きなベッドが置かれてある。
 天使はそのベッドの短い辺の縁にちょこんと腰かけ、僕を見上げている。
 天使に年齢はないだろうけれど、人間ならばきっと十二歳前後といったところだろう。腰まで伸びたさらさらの金髪に、光をよくはね返す白い肌。皮膚の薄い二重まぶたの奥から曲線を描いて張りだす瞳は明るい緑色をしている。てるてる坊主みたいな、素肌の上に着たスリーブレスのワンピースは丈が短く、さらに左足の上に右足を乗せるように足組みをしているものだから、余計に丈がめくれてふとももの根元まで露わになりそうだった。
 こちらへ差し伸ばされた生のままの右足は、薄い甲に筋のよく浮き上がった、人差し指が長いギリシャ型の美しい足先をしていて、生き人形の目醒めぎわのようにぴくぴくと指先が痙攣している。
 ワンピースの背中からは、天使の証である大きな白い翼が生えている。元気のいいときは肘を張るように翼が広がっているが、そうでないときは水やりを忘れられた生花のようにしゅんとしおれている。いまがまさにそうだった。
 きょうも昼寝してたの?
「うん、きょうもおひるねしてたの」
 天使が喉を反らせて猫みたいにあくびをすると、糸でつられるように背中の翼も少しだけ左右に開いた。
 車両の扉が閉まり、電車が動きだした。天井から垂れたおなじみの吊り革たちが、僕たちの頭上で揃って振り子のように揺れた。
 僕は彼女のすわるベッドのとなりに並んで腰かけた。ベッドには乳白色のシーツがかけられていて、手のひらで押すとスプリングが適度に弾んだ。
「おにいちゃんがあいにきてくれてうれしい」
 天使は組んでいた脚をまっすぐおろし、ベッドの縁から両膝をぶらつかせながら、となりの僕に微笑みかけてくる。
 僕もきみに会えてうれしいよ。
 いつからだったかもう記憶は定かではないけれど、こうして天使の少女と話すのが日課になっていた。ほかの山手線の駅とちがって、東京駅にはまだホームドアが設置されていないから、なにものにも邪魔されずにこの電車に乗り込める。
 僕はこの三号車の天使にしか会ったことはないが、ほかの座席車にはまたべつの天使たちが暮らしている。ホームに立って外から電車を眺めてみれば、スポーツジムのようにルームランナーや懸垂棒などが設置してある車両や、レントゲンみたいな医療器具らしきものがある車両など、さまざまな車両が数珠繋ぎになっているのを確認することができる。そこではタンクトップを着たむきむきの男性の天使や、白衣を着た医者風の天使が暮らしていて、きっとほかの車両の天使たちとも交流しているのだろう。後ろのほうの車両には、カリフラワーのようなコック帽を被ってコンロの前で中華鍋を振るっている天使もいるくらいだ。
 きみはほかの車両の天使たちと会ったりしているの?
「ううん、わたしはほかのところにはいかないよ。いつもここでおにいちゃんをまってるの」
 そうなんだ。このベッドの上で?
「うん、このべっどのうえで」
 マンガを読みながら?
「うん、まんがをよみながら」
 ベッドの両脇に沿って伸びる座席のロングシートには、さまざまな漫画雑誌が積まれている。マガジン、ガンガン、COMIC LO、ヤングジャンプ、百合姫、コミックアライブ、アフタヌーン、電撃大王、快楽天、きららフォワード……昔あった『男子でも読める少女誌』ことステンシルまである。
「おにいちゃんはまんがすき?」
 もちろん。きみが読んでいるものと同じものを読んでるよ。
「おうちではなにをしているの?」
 僕は少し考えて、きみと同じことをしているよ、と答えた。
「ふーん」
 となりにすわる少女はそれ以上なにも訊いてこなかった。
 ――このやりとりは、以前にもした気がする。が、うまく思いだせない。
 ベッドに腰かけながら天使の少女の横顔をうかがっていると、金色をした彼女の頭の向こう、ロングシートの上に嵌め込まれた車窓の外を、風景が高速で流れていくのが見えた。風景といっても移動が速すぎて東京の街並がまったくわからない。アニメのキャラが必殺技を放つシーンで、スピード感をだすために色とりどりの抽象的な線が走る『流背』という背景がよく描かれるが、そういう光景だ。
 僕の視線に釣り込まれて、天使の少女も車窓の外を過ぎていく流背へ目を転じた。
 一緒にその光景を見ながら、僕は口を開いた。
 僕はね、やっぱりこの街を壊そうと思うんだ。
「こわしちゃうの?」
 うん、どう考えてもこの国はおかしいからね。放っておけないんだ。人も政治も腐りきってるよ。強者にとって都合のいいだけの世界だよ。消費税は上がるばかりだし、上級国民は犯罪をしても逮捕されないし、高輪ゲートウェイとかいうふざけた駅名がつけられるし、表現だってどんどん規制されていく。非実在青少年がどうとかいって、みんなで自由な表現を阻もうとしているんだ。きっとAmazonでCOMIC LOを販売しなくなってしまったのも時の政権に忖度したせいだ。
「そんたく?」
 人の顔色をうかがうことさ。不潔な老人どもの顔色をね。
 まったく、この国は腐ってる。みんながみんな僕のことを馬鹿にしている。口先では弱者やマイノリティに配慮しろだとか言いながら、迫害しているじゃないか。いいかい、この国にはふたつのマイノリティがいるんだ。
「ふたつのまいのりてぃ」
 そう、社会的に許されたマイノリティと許されないマイノリティ。
 許されたマイノリティはむしろ強者なんだ。好きなふうにふるまっても許される。LGBTなんかがそうだよ。べつにLGBTが嫌いってわけじゃないけど、許されすぎじゃないか? テレビとか雑誌とかでも常に肯定的に取り上げられてさ。そいつらに少しでも文句をつけたらレイシストだって言われちゃうだろ。べつにゲイでもレズでもなんでもいいけどさ、なんで他人の恋愛なんかを祝福しなくちゃならないんだよ。知ったこっちゃないだろそんなこと。
 そいつらが公然と振る舞えるのなら、ロリコンとか獣姦だってOKじゃないかって思うけど、そういう性癖を持ったやつらは許されないんだ。許されないマイノリティなんだよ。僕はロリコンですみたいなことを言ったら、たちどころにアウトさ。手が後ろに回ってしまう。同じマイノリティでもまったく扱いがちがうんだ。
「ひどいね」
 ひどいだろ。
「さべつだね」
 差別なんだよ。マイノリティのなかの差別。
 
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