『表現の強さとはなにか?②』描写というマジックワード

前回の記事では、小説に限らず創作においては「おもしろさ」のほかに「強さ」というものが必要なのではないか、という話をしました。

ではその「強さ」とはなにか?
そんなもの、ただの抽象的な言葉遊びなんじゃないの?
という自己批判から今回の記事を始めてみます。

僕は長らく、そういう抽象的で偉そうなマジックワードのせいで、創作の本質がわからなくなっているのではないか、と批判的に考えていました。
(いま使った「本質」っていうのもまさに抽象語ですね。日常系アニメに対する批判でしばしば使われる「あのアニメには〝中身〟がない」というのもそう)

文芸誌などで評論を読んでいると、自明なものとして使われている文芸用語の定義が、評者によって微妙に異なっていることに気づきます。

たとえば、「描写」という言葉がありますが、それって一体なんだろう?
きっと作家や評論家によって返ってくる答えはまちまちでしょう。

2006年、僕が二十一歳のころ、デビューさせてもらったレーベルの編集長から、面と向かって「説明ではなく描写をするべきだ」というお言葉を頂戴しました。
そのときは「ははあ」とうなずいたわけですが、でもそれからしばらく経ったあるとき、ふと「説明と描写ってどう違うんだ?」と思ったわけです。

おそらくその編集長がおっしゃりたかったことは、「読者に臨場感を与えるように書け」ということだったのでしょう。
たんに出来事の羅列ではなく、読者を食いつかせるようにおもしろく書けと。それが描写であり、小説であると。
当時の僕はそのように受け取りましたが、でもそれって「うまい説明」と呼んでは駄目なのだろうかと、いまとなっては思うわけです。
「描写」と言わず、「うまい説明orへたな説明」「効率の良い説明or効率の悪い説明」「省略のある説明or省略のない説明」「五感に訴える説明or五感に訴えない説明」……このように書いたほうがより具体的ではないか?

また、僕は以前、「描写」というものは時間の流れがともなった表現だ、と考えていたことがありました。
たとえば戦闘シーンなどがそれで、「パンチを放ったら相手がよけてキックを繰り出してきて、それを手で払って」というような、刻一刻と状況が変化するものを、「時間の流れに沿いながら」書いていくものが「描写」だと。
一方、「説明」というものは、時間の流れを読者に感じさせないもの、情報を要約したものだと考えていました。
たとえば「この建物は三階建てで、間取りはこうで、材質はこのようなもの」という感じが「説明」だと。

動的表現が「描写」で静的表現が「説明」と考えていたわけです。
しかしいろいろと文芸評論を読んでいくと、どうもそういう定義をしている人はほとんどいないらしい。
また、動的・静的といっても、表現をする上で対象をそのどちらかに劃然とわけることはできません。
たとえば主人公が森の中に入って、自然の光景を目で追っていくだけにしてもそこには確実に時間の流れが生じます。
また、戦闘シーンにしても、その書き方によっては時間をぐんと引き延ばすこともできれば、あとから振り返ったように要約的に書くこともできます。

やはり「描写」と「説明」の違いはよくわからない。
ならば、いっそすべて「説明」でいいのではないか。
「時間の流れをよく感じさせる説明」もあれば「あまり時間の流れを感じさせない説明」もあるということでいいのではないか。

「描写」という言葉には、いわくいいがたい立派そうな雰囲気が漂っています。
「あの作品は描写がうまい」とか「描写のひとつひとつに作者のすぐれた鑑識眼ひいては人生観が宿ってる」とか。
極言すれば、明治以降の西洋から影響を受けた近代文学は、「描写」という概念を中心に回っていました。
明治三十年代以降、言文一致を推し進めた文学者たちが盛んに口にしたのが描写だし、その実践として自然主義の作家たちは「描写=近代的リアリズム」の観点から、あけすけで生々しい描写を駆使した作品を書こうとしました。
(岩野泡鳴の「一元描写」、田山花袋の「平面描写」、正岡子規・高浜虚子の「写生」など)

そういった描写偏重の風潮に対し、高見順は「描写のうしろに寝てゐられない」という短い小説論のなかで、「自然描写はかなはん」と書き、物議をかもしました。
「描写は文学に於ける民主主義」のはずなのに、現在(この小説論が書かれたのは1936年)はこの民主主義の前提である読者と作者との協力関係が構築できない、「客観的共感性への不信」があるという趣旨のことを高見は書きました。
「描写」を神聖視していた当時の文壇からはかなり反発があったようですが、個人的に高見の言い分にはうなずける部分がかなりあります。
しかし、やはり高見も「描写」というものに批判的に言及しながら、やはりそれを神聖視しすぎているきらいがあります。

描写という言葉をマジックワードにして権威を与えると、小説を巡る議論も抽象的になりすぎ空転してしまうのではないか。
また、「描写」にこだわったあまり、とりわけ純文学において作者の自己満足すれすれの「立派な描写」があふれることになったのではないかと僕は考えています。
たとえば志賀直哉の「暗夜行路」にしても三島由紀夫の「豊饒の海」でもいいのですが、ふとしたことで主人公が自然や街の風景に目を転じ、地の文でその描写がされることがあります。
それらは非常にうまい「風景描写」なのですが、その多くは物語には貢献しません。作品テーマとも絡まないことが多い。ただ主人公がよそ見をして風景を見ただけ。
僕はこれを以前から「よそ見描写」と呼んでいて、長らく続く文学の悪弊だと思っていました。
とりわけ日本の作家は、そういうちょっとした風景の描写を通じて、間接的に主人公の気持ちを表したり、叙情を醸すことをを良しとしてきました。
あきらかに万葉集以降の和歌・俳句などの影響ですね。

しかしそういう「よそ見描写」は物語を進めたりテーマを探求することには(ほぼ)つながらない。
立ち止まって読者に風景を見せて、「ほら感じてよ」とほのめかすだけです。

せめてその風景描写がストーリー上必要なものだったり、劇的な展開の中でそういう描写があればハッとしますが、とくになんでもないだらだらとした展開の中で主人公に「よそ見」をやられても困る、と僕は感じていました。

高見順の「自然描写はかなはん」という言葉も、きっと同じような思いから出てきたのでしょう。
「描写」を神聖視した結果、どんどん「うまい描写」が幅を利かせて、その結果文学がどんどんかったるくなっていった。
(石川忠司氏が「現代小説のレッスン」という本のなかで、現代の作家たちがそういう「かったるさ」にどう向き合っているかを解説しています)

僕は、抽象的で偉そうな「描写」という概念を捨てて、即物的な「説明」の地点にもどれば、ひとつひとつの表現の必要性を作家が冷静にチェックできるのではないか、と考えました。

つまり、「いま書いているこの文章(自然表現など)が、いったい小説にどのような貢献をしているのか、もし読者から質問されたときにはっきり答えられないようであれば、それは書く必要がないものだ」という考え方です。
「うまい風景描写だから価値がある」ではなく、「この風景を説明した文章表現が、小説全体とどのように関わり、機能しているか」が大事だというわけです。

「文章で説明した内容の必然性を、読者に訊かれたら説明できるようでなければならない」

こういう二重の「説明」の意識があれば、よけいなことは書かなくて済むのではないか。(オッカムの剃刀に近い考え)

説明というと、小説業界ではあまりよいものとされていませんが、小説の最大の武器は(少なくとも最大の武器の一つは)「文章であけすけにどこまでも説明できる」ところにあると僕は思います。
映画に代表される映像媒体は、ビジュアルや音で表現するため、すぐに情報が視聴者に伝わりそうに思えますが、じつは作品世界の背景であったり登場人物の関係性などを詳述するのがとても苦手な媒体です。
ナレーションや字幕のような形で説明することもできますが、それにも限界がある。

映画という媒体は立ち止まることを許さない。
時間の流れとともに一方的にどんどん情報が流れていってしまうため、視聴者が容易に情報の確認をすることができないのです。

一方、小説の場合は、地の文で野暮なまでに作品世界を説明したり、人間関係を説明したりすることができる。(上のほうで書いた、「時間の流れを感じさせない説明」がこれです)
映画みたいに一瞬で人物の外見や場所などをビジュアルで伝えることはできなくても、そのぶん時間をかけて地の文で様々な情報を伝えることができる。

たとえばファッション雑誌において、どれだけ人目を引く美しい写真が多く使われようとも、ブランドの背景や商品製造のこだわりを伝えるためにはやはり文章は欠かせません。
雑誌を見た読者にその商品を欲しいと思わせるには――そして小説において読者にドラマ性を感じてもらうには――その手の血の通った情報を適切に伝えることが肝要です。
説明不足のまま物語を進めても、受け手は感情移入ができず、当然ながら感動もできない。

そういう意味での説明の重要性を説いた映画監督に、ヒッチコックがいます。
彼は、トリュフォーと対談した有名な「映画術」という本の中で、サスペンスの重要性と絡めて情報の提示の方法を語っています。
彼の言うサスペンスとは、ミステリでよくある「意外な結末」というおどろき(サプライズ)とは違います。

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定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー

たとえば、映画の冒頭で、反政府組織のテロリストが自分の車に爆弾を仕掛けるとする。テロリストはそれを使って大統領府を爆破するつもりだったが、少し目を離した隙に車泥棒にその車を盗まれてしまう。車泥棒は爆弾のことなどつゆ知らず、上機嫌でその車を運転して街中を進み、やがて子供たちのいる保育園の前で停車し――

上記のストーリーは適当に自分が考えたものですが、ヒッチコックのいうサスペンスとはこのようなものです。
作中の人物たちは、それぞれ自分たちの知り得る情報しか持っていないが、それをスクリーン越しに見ている観客たちは、危険な状況がすべてわかっている。
観客たちは状況がわかっているからこそ、「その車には爆弾が載ってるんだから早くみんな逃げろ!」とはらはらしながら物語を追うわけです。
「なるべく映画の中の状況を観客に伝えるべきだ」とヒッチコックは言います。

ヒッチコックのすばらしいところは、役者の台詞で説明することだけでなく、カメラワークやカット割りで観客に大切な情報を説明できているところです。
たとえば、のちのち重要になってくるナイフなどの小道具があれば、カメラがそこにズームしてあけすけに「これが重要アイテムだよ」と伝える。
黒澤明などは「カメラが芝居するな!」と言ってそのような説明的なカットを嫌うのですが、その黒澤もたとえば「用心棒」が成功したのは物語冒頭の宿場町で、会話劇やカメラワークで堂々と状況を説明したからだと思う。
(だから評論家によっては「用心棒」を説明的だとしてあまり高く評価しない人もいる)

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娯楽の基本は説明である、と僕は思う。
ガンダムの脚本などで有名な星山博之氏の「星山博之のアニメシナリオ教室」でも、「説明を怖れるな」という趣旨のことが力強く書かれてあり、我が意を得たりと思いました。
(星山氏は「説明台詞にしろ」と言っているわけではなく、構成を含めた総合的な説明の重要性を言っています。余談ですが、シナリオ関係の本はどうしても物語全体の構造論に話が向きがちですが、星山氏は「脚本会議で駄目だしが出たら、ドラスティックに改稿するのではなく、ちまちまと細かいところをいじったほうが成功しやすい」という趣旨の実践的なアドバイスなどもされててとても勉強になります)

小説の場合、「描写」というマジックワードのほかにも「語り」や「文体」というものがあるのですが、これらも「説明」という言葉に置き換えたほうが理解しやすくなるのではないかと思う。
とくに「文体」というものにこだわると、どんどん文章によけいな情報が付着してしまい、「思い入れたっぷりの文体はかなはん」となりかねない。
これもいっそのこと、「文体など意識せず、説明のためのテクニックだけを考えて書く」ようにしたほうが良いのではないか。
そのテクニックによって、いったいなにを説明するのか?
そこを常に考えて書いていけば、かったるい表現にはならず、必要なものだけを正確に伝え、「おもしろい」ものが書けるのではないか?

――と、このように僕は考えていたのですが、最近は少し違う考えも(説明を重んずる部分は変わらないものの)持つようになった。
ここでようやく、前回の記事で取りあげた「表現の強さ」の問題とつながってくるわけです。

次回に続きます。