開高健が「完全燃焼の文体」という短い文章論を書いているのですが(
全集13巻に収録されています)、そのなかでヘイエルダールの「
コン・ティキ号探検記」とキャパの「
ちょっとピンぼけ」を取りあげて、どちらの文章もすごく良いと褒めています。
日本人の遊び場 (開高健全集)
コン・ティキ号探検記 (河出文庫)
ちょっとピンぼけ (文春文庫)「コン・ティキ号」も「ピンぼけ」も、文章を変に溜めたり捻ったりしないで、一文一文がすっと素直に消化されていき、読んでいく快楽を与えるばかりで、良い意味でなにも後に残らない――開高はおおむねこのような意味合いのことを書いていました。(いま手元に本がないので正確な引用ではないのですが)
。
また、自分もこのように書きたいが、なかなかこういう文章はものすることができない、というようなことも書いていたように思います。
実際にその二冊を読んでみて、開高の主張がよく理解できました。
どちらも小説ではなく、体験記です。
書き手が体験したことを、リアリズムに即して読者に伝えようとしている。
書き手は構成などには頭を使うでしょうが、部分部分の内容について変に迷うことは少ない。なにしろ自分が見て聞いて体験したことなのですから、「読者がこれを読んでどう思うかはわからないけど、でも実際にこうだったんだよ」という開き直りに近い気持ちでそれを書くことができる。
ことさらレトリックを使う必要なんてないんですね。小説と違って文体とか独自性とか、そんなことを考えなくていい。
だからインパクトのある内容が、スッスッと読者の中に入っていき、余計な煤や澱など残さずに完全燃焼していく。
よい意味で即物的で気持ちいいのです。
開高もベトナム戦争を取材したり、釣り体験をルポ風に書いたりしていますから、この手の文章のすばらしさがよくわかったのでしょう。
前の記事で取りあげた、鶴颯人さんの「
ロヒンギャへの道」もまさに文章がたゆまず完全燃焼している。
書き手の確信がそこにある。書く動機が明瞭なのが、文章の強さを支えている。
純文学であれルポであれライトノベルであれ、あるいは音楽や絵画や陶芸などであれ、すばらしい作品は単に「おもしろい」だけでなく「強さ」が感じられる。
表現には「強さ」としか言えないものがきっとある、といまの僕は感じています。
自分は以前、物書きであるからには、ちゃんと言葉で定義できない概念を安易に掲げるのには反対で、人によって都合よく定義の変わるマジックワードのせいで創作の現場が混乱していると考えていた。
しかしいまは、この「強さ」というものを娯楽作品においてどう出せるかというところに関心が向かっています。
次回の記事は、そこら辺をもう少し掘り下げてみたいと思います。