藍上 陸
れい亜 (イラスト)
SBクリエイティブ
第4回の解説はこちら。――――――――――――――――――――――――――――――
■第5話
せやねんなんでやねんどうしてんねん「……やん?」
「……です。このままほっとけばいいです。」
「だめだよ。タカハシくん冷たくなっちゃうよ。」
頭の上から、ざわざわと話し声。
高橋は目をあけた。
三角形の頂点を作るように、三人の顔がこちらを見おろしていた。
膝立ちになったペンネとヌグ、そしてもう一人、さきほどドロップキックをかましてきたジャージ姿の女性がいる。
「こ……ここは、」
「バター? 私はカレー?」
ジャージ姿の女性がいった。
「は?」
「ココアバター? 私はカレー?」\ドヤァ/
高橋の胸中に、キノコ雲のようにむくむくと不安が立ちのぼった。
「……俺は頭を打ってどうかしてしまったのだろうか。このジャージ女の言葉がまったく理解できない。おかしいのは俺のほうか、それとも……」
「ヲイ、心の声が口からダダもれや。」
「安心するです。どうかしてるのは二人ともです。」
ヌグが碧眼を冷たくさせていった。
「ええか? 頭打って記憶喪失になったモンがよく、『ここはどこ? 私はだれ?』っていうやろ? それを『ココアバター? 私はカレー?』ってな具合にボケてやな、」
「タカハシくん平気? 倒れて気を失ったって?」
「倒れたっていうか、倒されたっていうか……」
「頭いたい? たんこぶ?」
ペンネが心配そうに、高橋のうなじに手をやって上体を起こそうとしてくれる。
(あぁペンネちゃん!)(なんという白衣の天使!)(迫るおっぱい!)
「だれがカレーやねん! って、つっこめや!」
ペンネの胸の谷間を割るように、キラリと光るものがふってきた。
ジャージ女がバシンと高橋の額にチョップを落とした。
ペンネによって助け起こされる途中だったため、チョップがカウンター気味に決まり、高橋の頭はふたたび激しく通路に叩きつけられた。
「ご!?」覧の皆様、主人公が死亡したため、物語はここで「終わり、DEATH! ……」
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第5回は、前回のラストにでてきた「せやねん」という女性を交えた会話から始まります。
上記引用文では、合計四人がしゃべっています。
私の悪いくせとして、会話を書くとき、「一対一」の関係が多くなってしまうというのがありました。
たとえば、「A→B→A→B」というような感じですね。
その場にほかのキャラがいたとしても、基本的には一対一の会話が進んでいくことが多いのです。
Aが主人公であったとすれば、Bとの会話が終わったあとは「A→C」の会話となり、それがすんだら「A→D」といったように進みがちです。
あるいは、「A→B&C」というように、主人公の相手が複数人であった場合でも事情は変わりません。
ここの「C」のキャラは、いわばBの従属物のようなものになってしまい、積極的に会話をリードすることがありません。
一見すると複数人でしゃべっているようでいて、実際は一対一の関係のまま進んでいくことが多いのです。
会話の自由度にとぼしいわけです。
どうしてこんなくせがついてしまったかというと、やはり私自身のふだんの生活に原因があるのでしょう。
あまり多人数としゃべるという経験がないんですよね。
友だち少ないし。だから、リア充の合コンみたいに、多人数で「ウェーイウェーイ!」とはしゃいでいるようなやりとりができないのです。リアルでも創作でも。
多体問題みたいに、一対一の関係から抜けだすと、複雑になるんですよね。
ある作家さんとその話をして、「やっぱり会話の書き方って作家の私生活がでるよね」とうなずきあったものです。
しかし今作では、さまざまなキャラが登場するということもあって、なるべく従来の一対一の会話から脱却しようと努力しています。
第1回解説でもとりあげた「クロストーク」もそうですが、なるべく多人数の会話がカオスになるように努力しています。
が、うまくいってるのかよくわかりません。
「笑い」を優先させて、ひたすら読者を笑わせようとしていくと、結局は元の一対一の漫才的なスタイルにもどっていってしまうという……。
リア充の合コンの「ウェーイウェーイ!」というのは、やってる本人たちは楽しくっても、はたから見ているほうとしてはクソつまんなかったりするんですよね。難しいところです。
上記引用文でも、それぞれのキャラが好き放題にしゃべるように気をつけているつもりです。
最後に高橋の頭にチョップが落とされますが、当初はここで「
ダブルアクション」のように、アングルを変えてチョップをくり返そうかと思いました。
しかしここではスピーディーに展開したほうがおもしろいと思い、現在のようなシンプルな表現になりました。
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脱臼癖のように、落ち癖というものがあるのかもしれない。
すでに一日に二度も意識を落とされていれば、そうなるのも無理はなかった。
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シーン転換をして、上記の文からはじまりますが、連載で読んでいると「すでに一日に二度も意識を落とされて」のところがわかりづらいかもしれません。これは前回の第4回の朝のシーンで、ニシキヘビによってしめおとされているのが一回目で、そのあと第5回の冒頭でせやねんにドロップキックを食らって意識を失っているのが二回目です。そして、今回チョップを食らって意識を失ったのが三回目。
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ソファで横になっていた高橋は、上体を起こして部屋を見まわした。壁のあちこちにさまざまなポスターが貼ってある。七十・八十年代のものと思われる男性アイドルのものや、プロレスラーのもの、見たこともない古い映画の宣伝ポスターもあった。
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これはあとの回でふれられますが、このジャージ姿の女性(せやねん)が昭和の古い文化の愛好家なためです。
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「みるくせーきってどうやって作るの?」
「このミキサーにな、タマゴと砂糖と牛乳とちょびっとの洋酒、冷やすための氷とバナナなんかの果物を入れてな、ぎゅいいいいん! ってな具合に混ぜればミルクセィエキができんねん。さぁペンちょん! スイッチをゴーや!」
「ごー! ぎゅいいいいん!」
「まつです、なんかいまおかしな単語がきこえたです!」
「本場の発音にしただけやて。あ、ペンちょんもう止めてええで。」
「いいいいん……ぴたっ。あ、ぶくぶくしてる。」
「見ぃ! どろどろの白濁液の完成や!」
「死ぬがいいです! ペンネさんもう帰るです!」
「おいしそだよ?」
「ヌグはのまないです!」
「ヌグぽんだけのまないなんていけずや。ほれペンちょん、上目遣いでヌグぽんにお願いしてみ? 『ボクのミルクセィエキをごっくんして?』って。」
「うりゅ?」
「や、やめるですペンネさん!」
「ヌグちゃん? ボクのみるくせーきをごっくんして?」
「ふがっ!?」
「えっ、どしたのっ?」
「ネズミが鼻血を噴きおった!」
…………
そんなやりとりを、高橋はぼんやりと、遠いできごとのように見つめていた。
(あれ?)(俺、場ちがい?)(合コンで浮いてる系?)
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はい、
下ネタのやりとりです。
このジャージ姿の女性(せやねん)が入ったことにより、会話のなかに下ネタが加わることになります。
下ネタって人を選ぶから、やりすぎるとよくないと思うんですよね。
しかも女性キャラに下ネタをいわせると、そのキャラは主人公にとって恋愛対象外になりやすいし、男性キャラにいわせると女性に対するセクハラとなって好感度がさがってしまうという。
でも、私が考えつく
笑いのパターンの八割は下ネタか不謹慎ネタでできているので、どうしても下ネタをだしてみたくなります……。
このせやねんというキャラは、企画当初はキャラ同士の交流を円滑するための潤滑剤のつもりで考えていました。
登場人物が変人ばかりなので、主人公だけではうまくさばくことができないことが予想されたので、せやねんのように状況に応じてツッコんだりボケたりできる人材がいたほうが、キャラ同士の交流が円滑に進むと思ったのです。
しかしいざ書いてみると、下ネタばっかりいいだして……担当さんをもってして、「
予想以上に下ネタが多いです」といわしめるキャラになってしまいました。
また、上記引用文の最後のほうの地の文に「…………」と三点リーダーが入っています。
第1回解説でも書きましたが、本作では基本的に三点リーダーは台詞だけで使うようにしています。地の文では使わない。
しかし、ここでは例外的に使うことにしました。
ペンネ・せやねん・ヌグの三人のやりとりを、あえて地の文をなくして台詞だけで書いたあと、それを見ている高橋へとカメラを向けるわけですが、その切替をどうするかが難しかったのです。
せっかく会話のところでは地の文をなくして純粋に台詞だけで書いていたので、高橋にもどすときに地の文でぐだぐだと説明してしまうと、それまでの流れが台無しになってしまうと思ったのです。
なので、地の文で「…………」と無機的なクッションを置いたあと、つぎの行に地の文を入れることにしました。
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一人残された高橋は、やわらかいものがおしつけられていた腕や、拭かれていた股を見おろした。しかしそこには、もはやなんの感触もない。すべては去っていってしまった。
諸行無常である。禅の境地である。
喉をそらせて、一気にミルクセーキをあおった。
チロの誕生 ヌグのそらされた白い喉が、おっかなびっくり元にもどされた。
「……止まったです。」
「よかったね。でもなんで急に鼻血でたんだろ?」
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ここでは、空白行を境にして、
ステープリング・テクニクスの「
動作跨ぎ法」の一種を使っています。
「喉をそらせる→元にもどす」という動きを、高橋とヌグによって分割しておこなっています。
映像でいうマッチカットの一種で、これをおこなうことにより、動きがつながっている高橋とヌグとのあいだに「気分のつながり」も与えています。
高橋もヌグも、原因はちがえども、どちらも気分が落ち込んでいる状態です。
この「喉をそらせる→元にもどす」という動作を二人がおこなうことによって、「気分」も一緒にバトンタッチしているわけですね。
下記引用画像は、京都アニメーション制作「
CLANNAD」の18話からです。(監督=石原立也/絵コンテ・演出=高雄統子)


藤林杏のカットと、岡崎朋也のカットです。
二人はちがう場所にいますが、カットをまたいで構図に類似性があります。
これによって、二人のあいだに「気分のつながり」を示していることになります。
カットをなめらかにつなぐだけではなく、ドラマの「気分(ムード)」も持続させているわけですね。カットを割ることによる「気分の断絶」という弊害をなくしているわけです。
映像であれ小説であれ、物語というものはいかに気分(ムード)をつないでいくかにかかっていると思います。
コメディであれシリアスであれ、見る人を感動させたり昂奮させたりする作品は、例外なくこの気分の持続を大事にしています。
脚本レベルでも注意が必要ですが、やはり演出レベルでも細心の注意が必要なのでしょう。
自分もそういう力を身につけたいものです。
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「大学っていえば、新入り……えっと、なんつんやったっけ?」
「タカハシくんだよ。とーだいに入りたいんだって。」
「ほー、東大。何回落ちたん?」
高橋は一瞬口ごもり、「……二回、です。」
「二回も! ほー、ほー!」
音痴なフクロウのように「ほー」をくり返す。
「な、なんですか。悪いですか!」
「さては幼なじみがおるな?」
「幼なじみ……?」
「小さいころ、一緒に東大に入ろうって約束しあった幼なじみの女の子や!」
「???」
「あかん、こりゃつぎも東大落ちるわ。三浪決定や。」
「どうして!?」
「でも安心しい、ツンデレの子と仲良くなれるわ。その子のほうがさきに東大入るけどな。」
「あの、なんのことかいまいち……」
「ラブや! ひなた荘でのラブや!」
困惑する高橋の斜向かいで、ヌグがおののくようにぼそりと「ヌグですら遠慮して指摘しなかったことを……」とつぶやいた。
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もうここは、まんま赤松健氏の「
ラブひな」へのオマージュです。
パロっぽくなってますが、自分としてはあくまでもオマージュ、リスペクトのつもりです。(笑いに持っていこうとしてるのが余計なだけで……)
執筆前史でも書きましたが、やはりこういう「同じ場所で美少女と暮らす」という作品は、私の世代では「ラブひな」がその代表格だったんですよね。
ジャンルとしてはラブひな以前からあるのですが、まっさきに浮かんでくる作品は、やはりラブひなです。
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「いえ、あの、大学生、ですよね?」
「そうや。ヨーグルトとか作ってる食品会社と同じ名前の大学や。」
ドヤと胸を張る彼女。
(ヨーグルト?)(っていえはCMで……)
高橋は少し考え、怖々と答えた。
「……ブルガリア大学?」
「そっちかい!」
大判のハリセンをとりだして、スパーンと高橋の頭をはたいてきた。
「あ、でもおもろいからそれでええわ。こんにちはーっ! ブルガリア大学のせやねんちゃんでーす! きゃぴっ☆」
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こういうの、わざわざ解説するのは野暮だと思うのですが、あえて説明しますと、明治大学のことをいってます。
・ヨーグルトを作ってる会社→明治(食品メーカー)→明治大学
という答えなのですが、高橋が「明治ブルガリアヨーグルト」を連想して、なぜか「ブルガリア大学」と答えてしまった、というわけです。
はっきりと大学名を書くより、こういうふうにぼかしたほうが気が利いてるし、明治大学は私立大学なので名前をださないほうがいいかなと。
どうして彼女を明治大学の学生にしたかというと、彼女は神保町の出版社でアルバイトをしているという設定だからです。
実際の出版社でも、けっこう明治大学の学生さんがバイトしてたりするんですよね。明治大学のキャンパスが近くにあるので。
――――――――――――――――――――――――――――――
「新入り! お前のあだ名を決めたる!」
ハリセンをびしりと高橋の鼻先につきつける。
「出身地はどこや?」
「え、千葉、ですけど?」
「千葉か。西日本でゆうたら広島やな。」
「???」
「そなの?」
と、ペンネが膝元のヌグにたずねると、ヌグがちらっと顔をあげて、「ブルガリア大学に日本のことはわからないのです」と冷ややかに答えた。
「千葉の浪人生を略して……チロでどうや!」
「ち、チロ? なんかチョコの名前みたいで……」
「いーんじゃない? ボクさんせー。」
「犬みたいです。」\雑種の/
せやねんがパンと手を打った。
「決定や! お前はきょうからチロウや!」
「ちょ、チロウ? チロ? どっちなんすか?」
「いやか? チロウ? それとも早いんか?」
「早い?」
「早く終わるんならソウロウや。」
「下ネタかよ!」
ハリセンを奪って叩いてやりたかった。
ペンネが「ソウロウ?」と膝元にたずねると、ヌグがそわそわしながら「そ、候文のことです!」と答えた。
「で、どっちなんや? アノときは早いんか? 遅いんか? んんっ?」
「どどど、どっちでもいいでしょっ、そんなのっ!」
動揺のあまりオカマ口調になる高橋に、せやねんは「ぬっふふ」といやらしく笑い、
「さては経験ないんか? ないんやろ? んん?」
「ちがっ、ちがいます! 濡れ衣です!」
「精通するようになったら相手してやってもええで?」
「さすがにそれはもうしてます!」
――――――――――――――――――――――――――――――
高橋に「チロ」というマンションネーム(?)がつけられるくだりです。
これ以降は、地の文でも「チロ」と書かれることになります。
ふつう、作中でキャラの名前が変わるのは混乱のもとになるのでよくないのですが、今回はあえて呼び名を変えることにしました。このあとも細かいところで呼び名が変わったりします。
この「ニックネーム」というのは、集団の一員と認められるということをあらわしています。これにより高橋は「チロ」というマンション内でのキャラクターが与えられたことになり、ツッコミ役としての立場が強まっていきます。これによってようやく作品の体裁がととのったともいえるでしょう。
上記引用文の最後、「さすがにそれはもうしてます!」のところでシークエンスは終わり、空白行を置いてつぎのシーンへと移ります。
当初はこの台詞のあと、地の文で「こうして高橋はチロとなったのだった。」などという一文を入れて終わらせていたのですが、推敲のときに外しました。
こういう、最後につける一文というのは蛇足であることが多いです。
つけたほうが、いかにも「終わった」という感じはでるのですが、逆にいえば説明的で、むりやり終わらせたように見えてしまうおそれがあります。
私が高校一年生のときに、国語の授業で
芥川龍之介の「
羅生門」という作品を教わりました。
小説を読むのはこれがほぼはじめてだったのですが、国語の先生が丁寧に教えてくださったおかげで、小説に興味を持つようになりました。
自分にとって非常に思い出深い作品なのですが、ここでも「蛇足の一文」という問題がありました。
この作品の最後は、以下のように終わります。
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下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
下人の行方は、誰も知らない。
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問題は、最後の一文です。
「下人の行方は、誰も知らない。」というこの一文が、果たしてよいものかどうか、文学者のあいだでも意見がわかれているようです。
自分が十代のときに読んだある文芸評論では、「文豪芥川も、この蛇足の罠にかかって、余計な一文を書いてしまっている」という趣旨の批判がありました。たしかにいわれてみれば、その手前のパラグラフの「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。」という文章で話を終えたほうが、外に開かれた終わり方な気がします。
「下人の行方は、誰も知らない。」という一文をくわえてしまうと、ここで強引に物語を閉じたように感じられてしまいます。なんだか、紙芝居の最後に「ハイ、終わり!」といわれてしまった気分です。
「視点」という観点においても、この最後の一文はだれの視点なのかわかりません。「下人」でも「老婆」でもなく、神から見たような視点となっています。それが余計に、前の文との断絶を引き起こしています。
しかし一方で、べつの評論では、この最後の一文を褒めている人もいるんですよね。
唐突に視点が変わることが、かえって作品の可能性を広げているという評価もあるようです。
ここら辺は本当に難しく、結局は好きずきとなってしまうのですが……。
昔の自分は、こういう一文はむしろ好きだったのですが、最近は好みが変わって、入れないほうがすっきりしていていいかな、という気がしています。
ただ、本当に必要な一文ならば当然入れるべきで、そこの見極めが重要だと思います。
入れなくてもとくに問題ないようなら、外したほうがいい。そのほうがスピード感がでますし、むしろちょっと不足しているぐらいのほうが、つづきを読んでみようという気も起きるんですよね。シークエンスを完全に書き切ってしまうと、そこで話が閉じてしまって、つづきを読もうという気が起きない。
そういう「不足」の部分を狙って作れるようになると、ぐっと表現の幅が広がる気がします。
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「精通するようになったら相手してやってもええで?」
「さすがにそれはもうしてます!」
稼いでる男「東洋の魔都、秋葉原ッ!」\です/
くわっとヌグが目をみはり、背後に『ズガーン!』と春雷が轟いた、ような気がした。
実際はうららかな陽気の、いつもの平和な秋葉原である。
午後一時、その秋葉原の通りを、三人の男女が連れだって歩いていた。
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台詞のやりとりのあと、一行空きを挟んで、秋葉原の路上に移ります。
いきなりヌグが意味不明なことを叫んでますが、とくに深い意味はありません。ハッタリをかましたかったのでしょう。
ここでは、電波塔の外にでて秋葉原を移動するシーンです。
あらためていうまでもありませんが、この作品のタイトルは「アキハバラ∧デンパトウ」です。
「∧」という記号は、「および」を意味する論理記号です。つまり、「秋葉原および電波塔」という意味になります。(また、「∧」は電波塔の尖った形もイメージしています)
電波塔のなかだけで物語を動かしてしまうと狭くなってしまいますし、秋葉原の特異なイメージも物語に付与したいと思っていたので、どこかで外のシーンを入れたいと思っていました。
ここから、キャラたちは秋葉原を移動しながら「企業戦士」というキャラを探すのですが、秋葉原の街並をどう描写するか迷いました。
私は2010年から東京に二年間住んでおり、そのときはほとんど毎日秋葉原に通っていました。秋葉原の喫茶店にノートパソコンを持ちこんで仕事をしていたからですが、取材もかねていました。当時、この作品を含む複数の作品で秋葉原を舞台にする計画があったので、地理的なことや雰囲気を知ろうとしたんですね。
なので、秋葉原の街並をがっつり文章で表現したいという欲求に駈られるのですが、二つ問題があります。
一つは、実際の街並は時とともに移り変わってしまうということ。
秋葉原についても、2000年前後ぐらいと現在とではかなり趣が変わっているといいます。
もう一つの問題は、描写の「長短・巧拙」と、作品としての「おもしろさ」はかならずしも一致しない、ということです。
キャラクターの容姿描写もそうですが、それを細かく描写したことによって「おもしろさ」へどれだけ貢献するかは、慎重に見極めなければいけないと思います。作家の自慰的な描写自慢になってしまってはいけない。
十八・十九世紀の海外小説などでは、しばしば現代的な感覚では長すぎるぐらいの風景描写がおこなわれます。これはまだ写真や映像が未発達であったため、文章でいちいち細やかに描写しなければ、異境の人たちに伝わらなかったからでしょう。同じ国の人であったとしても、ちがう街のことはさっぱりわからなかった時代が長くありました。
十九世紀後半から各国で新聞や雑誌などの刊行物が増え、それによってようやく国の事情が同国人に広く共有されるようになり、ナショナリズムが芽生えたということは、ベネディクト・アンダーソンが「
想像の共同体」で述べているとおりです。
また、写真や映画の発明により、国内の風景がビジュアル的に共有されるようになり、文章で細々と風景を書かなくても、読者とイメージを共有しやすくなりました。
つまり、実際に秋葉原に行ったことがなくても、映像その他によって読者のあいだにはあるていど「秋葉原」のイメージができているということです。
なので、あらためて細々と書かなくてもいいのではと思い、上記のシーンではほとんど秋葉原の描写はしていません。
その描写が物語上必須であったときは、もちろん細かく書く必要もありますが……。
――――――――――――――――――――――――――――――
ヌグの恰好はネズミのパジャマから、ワンピース型の鹿の着ぐるみに変わっていた。着ぐるみといっても、生地が薄く、パジャマと同じようなものである。
チロは一緒に歩きながら、周囲の視線が気になったが、何人かの通行人が物珍しげにヌグに視線をやるだけで、とくにこれといった反応もなかった。この魔都においては、着ぐるみで歩いている人間など、海におけるヤドカリていどの物珍しさにすぎない。
――――――――――――――――――――――――――――――
ふだんヌグはさまざまな着ぐるみを着ているという設定なので、場面を変えるときも着替えさせています。マンガやアニメと比べて、小説ではいまいち伝わりづらいと思うのですが、読者に想像していただきたいところです。
「着ぐるみで歩いている人間など、海におけるヤドカリていどの物珍しさにすぎない。」というのは、ここでも海産物系の比喩を使っていますが、さすがに実際の秋葉原でヌグみたいな金髪美少女が着ぐるみで歩いてたらもっと注目されそうな気もします。が、実際はやはりほとんど気にされないかもしれません。魔都ですからね。
――――――――――――――――――――――――――――――
中央通り沿いに建つゲームセンターへ、スーツ姿の男性が入っていくのが見えた。
「ゲーセン? 企業戦士さんが?」
「キエ――――――――ッ!!」
せやねんがハリセンをふりかざし、示現流もかくやといういきおいで急襲した。
「うむ?」
企業戦士がふり返る。
その眼鏡のレンズに、ふりおろされるハリセンの姿が白々と反射した。
∽∵∧―∧
バシーッ!
「わっ、なんだい?」
背後の音におどろいて、ZOOは肩をはねあげた。
大きなゾウが、長い鼻で一輪車を叩いてひっくり返していた。
動物園に勤めているZOOは、ゾウの飼育場の掃除と、エサやりをしているところだった。
一輪車にはゾウのエサが入っていたのだが、すっかり地面にぶちまけられている。
「こらこら、もったいないゾウ?」
『…………』
ゾウはつぶらな瞳で、ただZOOを見おろしている。
「一輪車で無ゾウ作にエサをだすのは失礼だって?」
『…………』
「ははっ、『黙れ小ゾウ!』って感じかい?」
『…………』
ゾウの長い鼻が鞭のようにしなり、もう一つの一輪車を打ちすえた。
バシーッ!
∽∵∧―∧
「うぐぐぐぐ……」
企業戦士が額をおさえ、前かがみになってうめいている。
追いついたチロは、ハリセンの二撃目をくわえようとしているせやねんの手をおさえた。
「ちょ、せやねんさん!? 急になにを!?」
「ええねん! 絶対こいつ、ろくなこと考えとらん! いまのうちからシバいとかな!」
――――――――――――――――――――――――――――――
長めの引用になりました。ここでは、謎の記号である「
∽∵∧―∧」のよる空き行が二カ所でてきます。
その空き行を挟んで、また
動作跨ぎ法を使っています。
・「せやねんがハリセンをふりおろす」→「インパクトの瞬間に場面転換」→「バシーッ!とゾウの鼻が一輪車を叩く」
という流れにして、ハリセンの動きと、ゾウの鼻の動きを、マッチカット的につなげています。
これにより、ただのハリセンの攻撃を、まるでゾウの攻撃であるかのように迫力を増して表現することができます。
また、前回の第4話で企業戦士と一緒に電波塔をでていったZOOが、ちゃんと動物園で働いていることも示したかったのです。企業戦士は三十年間ニートだけど、ZOOはちゃんとした社会人ですよ、と……。
このシーン、当初はふつうに、せやねんがハリセンをふりおろすだけの書き方をしていました。
しかしそれだとどうしてもインパクトが弱かったため、変更することにしました。
映像でも使われる手法なのですが、あえてインパクトの瞬間を隠すことで受け手の想像力をかきたて、印象深く演出することができます。
以下の引用画像は、「
監獄学園」(水島努監督)の2話からです。(絵コンテ=二瓶勇一/演出=高島大輔)




トイレで、主人公の藤野清志が、緑川花の顔に放尿してしまうシーン。
放尿する瞬間にカットが切り替わり、外で水をのんでいる白木芽衣子が映されます。
これにより、直接は描かれていないものの、「藤野清志の小便が、緑川花の口に入った」ということが示されたことになります。
大事な瞬間を隠すことにより、かえって視聴者の興味を引き立てているわけです。
――――――――――――――――――――――――――――――
「バレてしまったものはしかたない。そうだよ! 私はニートなのだよ! 大学をでてからじつに三十年間、いっさい働いたことがないのだ! 生活はすべて田舎で農家を営んでいる両親の仕送りに頼っている!」
熱弁する企業戦士の背後に、もんぺ姿の年老いた両親の働く姿がもくもくと浮かびあがった、ような気がした。
それを光背にして、企業戦士が目をくわっと見ひらいた。
「両親が健在なかぎり、私はこれからも遊びつづけるつもりだ!」
「うぉぉおおっ、ききたくないっ!」「何度きいてもやりきれんわ!」
たまらず耳を塞ぐ二人。
ヌグがマイクを握って、「これが現代社会の闇なのです」とテレビリポーターに変身した。
――――――――――――――――――――――――――――――
企業戦士がニートであることが判明するシーン。
たぶんですが、この「アキハバラ∧デンパトウ」の企画が通ったのは、この企業戦士の存在が大きいと思います。
冷静に考えてみるとこの作品、女性キャラの数が少なく、男性キャラがかなり多い構成なのです。しかも19歳の主人公を除けばみんな中年ばかりという、ライトノベルではあまり例がない構成です。
それでも、企画会議では「企業戦士などのキャラがおもしろい」という理由で通ったそうなので、「三十年間ニート」という設定はインパクトがあったのでしょう。
作者としても、この企業戦士みたいになにをやらせてもだいじょうぶなキャラというのは、非常に動かしやすくて助かるものです。どんなひどいことをしても、キャラが壊れずに「あの人だからしかたない」というふうに収まるので。
書いててふと思いあたったのですが、この「企業戦士」という名前、ゲーム「
STEINS;GATE」に影響されているかもしれません。
このゲームにでてくる阿万音鈴羽というキャラのニックネームが、「バイト戦士」というのです。
この企画を作った2010年10月ぐらいにはすでに「STEINS;GATE」をプレイしていたはずなので、そこから連想したのかもしれません。
もっとも、「企業戦士」という名前自体、世間ではたまに使われる言葉なので、ひょっとしたら関係なく偶然かもしれませんが……昔のことなのでおぼえてない……。
シュタインズゲートの「バイト戦士」、いいキャラですよね。性格や設定もいいですし、
田村ゆかりさんの声が偉大であることを再認識させてくれるという意味でも、すばらしい。
そういえば、秋葉原を舞台に物語を作ってみようと考えたのも、この作品の影響かもしれません。
ノベル形式のゲームとしては、「
月姫」や「
AIR」などとならんで、もっとも好きな作品です。
閑話休題。
「熱弁する企業戦士の背後に、もんぺ姿の年老いた両親の働く姿がもくもくと浮かびあがった」というのはマンガ的な表現です。
いわばマンガの常套的表現を借りているわけで、日本人だったらすぐにマンガを連想して理解できるでしょうが、外国の方には伝わらないかもしれません。たぶんこういう表現は一般文芸では嫌われる傾向にあると思うので、ライトノベルならではの遊びだと思います。
「ヌグがマイクを握って、「これが現代社会の闇なのです」とテレビリポーターに変身した。」というのは、一種の隠喩ともいえますし、ギャグマンガのようにリアリズム無視で本当にテレビリポーターに変身してしまったともいえると思います。
あえてあいまいな中間を狙ってみました。
――――――――――――――――――――――――――――――
「なんと! あれはせやねん君だったのかね!」
ガン、とボディブロー。
「いいか、ほかの子たちの前では余計なこというなよ。わかったな。」
「あぐぐ……く、ククッ、関西弁が消えているじゃないか。それが地かね?」
ガンガン!
「ぐほうっ! に、二回も……」
「ふん、掲載しとる場所的にちょうどええ。」
「掲載? はて、妙なことを。」
「またガンガンされたいか?」
「ふっ、さすが出版社でバイトしてるだけあって、先方への媚びの売り方もばっちりだね。」
ガンガン!
「おら、お前が媚び売れや。」
「ごほっ、げほっ、ガ……ガンガン万歳! 一生ついていきます!」
お偉方のいそうな方面に向かって、企業戦士が頭をさげた。
――――――――――――――――――――――――――――――
ガンガンGAで連載していることからくるメタ的なギャグですが、このシーンは当初はもっと
ヤバめのギャグが入っていました。
場所がゲーセンということで、ガンガンにからんだゲーセン系のパロネタを入れていたのですが、担当の方から「ネタがきわどすぎる」とNGがでたため、二ページほど現在の形に差し替えとなりました。
変更になったのは残念ではありますが、しかたありません。
出版社同士のバトルに発展したら怖いし。そのあと、ニュースで例の件が示談となったという話が流れたので、よかったなと思いました(^^)
第5回の解説は以上です。
第6回の解説はこちら。