藍上 陸
れい亜 (イラスト)
SBクリエイティブ
第1回の解説はこちら。――――――――――――――――――――――――――――――
鼻の奥がむずつき、高橋は罪悪感を吹き飛ばすように大きなくしゃみをした。
四月一日はなんの日?「ふぁ、ふぁ……ぶぇっぷ!」
不恰好にくしゃみをし、鼻をすすりあげた。
高橋はペンネの部屋のリビングで、カーペットにあぐらをかいている。
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「鼻の奥がむずつき、高橋は罪悪感を吹き飛ばすように大きなくしゃみをした。」までが、前回の内容でした。
一行空きを挟んで、第2回が始まりますが、ここではまた「
ステープリング・テクニクス」の「
動作跨ぎ法」を使っております。
引用文の最初の行で「大きなくしゃみをした。」とき、高橋は廊下におります。
しかし、「ふぁ、ふぁ……ぶぇっぷ!」とくしゃみをするとき、高橋はペンネの部屋のリビングに移動しています。
これはつまり、ちがう場所でおこなわれた二度のくしゃみを、編集によって一度につなげているわけです。
シーンからシーンへ移るときに断絶を起こさず、なめらかにつなぐのが目的です。
これは映像の編集(カッティング)でいうところの「マッチカット」の一種に相当すると思います。
マッチカットを一言で定義するのは難しいのですが、「カットをつなぐとき、アクションや、映像の意味などによって連続性を保ったままつなぐこと」という感じでしょうか。
一口にマッチカットといっても、通常のカット割りの範疇でおこなわれる自然なものから、視聴者に強烈なインパクトを与える特殊なものまでさまざまです。
たとえばアニメですと、惜しくも早世された今敏監督の映画でしばしば印象的に使われておりました。
「
パプリカ」の冒頭の夢のなかのシーンで、人を叩くアクションによってカットが切り替わるのがマッチカットです。



上記の引用画像の一枚目は、室内で女性が鞄をふりあげているカットです。
そのまま鞄をふりおろすのですが、アクション途中でカットが切り替わって、つぎのシーンに移行します。
二枚目の画像では、ギターで人の頭を叩いています。
三枚目の画像では、カメラが引いてロングショットとなり、シーンが切り替わったことが示されます。(
ローマの休日の有名なシーンですね)
このマッチカットでは、「物をふりあげる→ふりおろす」の動きを通じて、シーンの切り替えを印象的におこなっているわけです。
このほかに、マッチカットでとりあげたいのが、山田尚子氏が監督をつとめる「
たまこまーけっと」のEDアニメーションです。(EDの絵コンテ・演出も山田監督です)
EDの最後のほうで、回転する丸いレコードの映像が、オーバーラップによって丸い月へとして変化していきます。これがマッチカットです。


そのあとカメラが左にパンしていき、地球の丸い姿が映りますが、それもオーバーラップによって丸いコーヒーソーサーへ変化します。これもマッチカットです。


「丸いもの」という共通項でマッチカットをおこなうことで、映像に連続性と快感を与えているわけです。
この「たまこまーけっと」のEDは、マッチカットのほかにも編集テクニックが使われております。
たとえば、ロッカーのなかに女の子が隠れたりするあたりは、ジャンプカットの一種が使われています。



同一のカメラで撮影しながら、あえてカットのつなぎに飛躍を与えるのです。カットが切り替わるたびに、人物の位置が変わったり、人物そのものが消えたりします。時間をつまんで、途中の行為をジャンプさせているわけですね。
このジャンプカット、アニメではとくに2000年代に入ってから増えたような気がします。アニメ制作のデジタル化によって、そういう演出がしやすくなったのかもしれません。
とりわけ、京都アニメーションの諸作ではよくジャンプカットが使われております。
なめらかに動く作画のなかに、ときおりぴょんぴょんと人物がワープするようなジャンプカットのシーンが入ると、小気味よく感じられます。
「たまこまーけっと」の1話冒頭でも、三人の女の子が順々に光の道を飛び越えるところで、ジャンプカットが使われております。
このEDではほかにも、サビに入るところで印象的なカッティングがあります。
ちぎった花びらがひらひら飛んでいく動きと、女の子たちが歩いていく姿とが、カットの切り替えによって交互に映されるのです。
これは「クロス・カッティング」と呼ばれるもので、古くはサスペンスなどでスリルをだすために使われたりしていましたが、このようにミュージック・クリップ的なテンポのよい映像を作るときにも使われます。
いま私はミュージック・クリップ的と書きましたが、まさにこの「たまこまーけっと」のEDはそのような演出がふんだんにおこなわれております。
・歌詞と映像内容とのマッチ。(ぜんぶでマッチさせると逆にださいので、部分的に)
・音楽のビートに合わせて女の子が走っていく演出。
・象徴的な一連の花のあつかい方。
・即興的に撮影したような、人物が中心から外れて端によった構図。
・同じく即興的に撮影したような手ぶれの映像。
・体の一部分だけを強調する撮り方(とくに山田氏の好きな女性の肢)。
・前述のジャンプカットやクロス・カッティングも、ミュージック・クリップでよく使われる手法。
上記の特徴はこのED特有のものというわけではなく、アニメのOP・EDではまま見られるものです。
しかしとりわけこの「たまこまーけっと」のEDではうまく使われていると思います。
個人的に、いままで見たアニメのなかで、このEDが一番好きです。
このあとに作られる映画「
たまこラブストーリー」で存分に示される山田氏の映像センスが、このEDでも堪能することができます。
ちなみに、私が勝手に「
山田ハンド」と呼んでいる、「両腕を下方へつきだし、手の甲を上向かせる」という特徴的な手の形も、このEDで見ることができます。これは山田演出の定番で、よくヒロインたちがこの手の形をして歩いたり、リアクションをおこなったりします。
このEDは、作中の「もち蔵」によって撮られた映像、という趣向です。(もち蔵は映画監督志望)
もち蔵によって撮られているという意味では、映画「
たまこラブストーリー」のEDでも同じであり、ストップモーション的にコマを操作する演出が入り、素人が一所懸命に撮ったような雰囲気になっています。(一種のPOVになっています)
そう考えると、空と飛行機雲が映っているEDカットで、急に画面の端で「たまこ」が起きあがってカメラ(もち蔵)を見おろすという流れは、つまりもち蔵とたまこが仲良く並んで寝転んでいた、というリア充シチュエーションを意味するのであります。嫉妬するのであります。

どうしてこう長々とアニメの話を書いたかというと、「
ステープリング・テクニクス」というのは、この「たまこまーけっと」や「パプリカ」などのアニメ演出に触発されて考えたものだからです。
それ以前の二十代前半から、脚本、演出、絵コンテ、演技については自分なりに学んでいたのですが、「編集(カッティング)」という部分はあまり考えてはいませんでした。
カッティングも演出の一部にちがいないのですが、実写の場合だと監督のほかに専門に編集をおこなう人がおりますし、とくにハリウッドの場合だと編集権がプロデューサーにあって、監督は自分の撮った映像をいじれないということがよくあるそうです。
なので、自分としてもあまりカッティングに注目してこなかったのですが(せいぜいイマジナリーラインやショットのつながりを気にするぐらい)、「たまこまーけっと」の本篇とEDを見て、「こいつぁヤベぇ」と思い、あわててカッティングについて勉強したわけです。
もっとも、映像テクニックを小説に応用したからといって、映像的な効果がそのまま小説でも再現されるわけではありません。
あくまでも、「それをおこなうことによる、文章の新しい切り口の発見」が大事なのだと思います。
小説はあくまでも文章がすべてですから、文章の書き方に新しい視点を与えることが重要です。そのために、ほかのメディアを参考にするのは有効だと思います。
手塚治虫を始めとする戦後のストーリーマンガも、ディズニーアニメ・映画・舞台・文学(少年小説含め)・絵画などの他メディアの手法をとり入れながら発展していきました。(むろん、「
スピード太郎」「
汽車旅行」などの戦前のマンガの直接的な影響もあります)
最近のハリウッド映画のなかにも、日本のアニメやマンガやゲームに影響を受けて作られたものがあるくらいですから、小説も他メディアの影響を受けても罰は当たらないと思います。
それによって小説の効果があがればよいわけです。
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「うん? 寒い?」
かくりとペンネが首を傾げて、アザミのようにぱっちり華やいだ目を向けてきた。彼女はいま、ぺたんとカーペットに女の子坐りし、紙にマンガを描いている。
「ぐずっ……いや、花粉症みたいでさ。」
かくり。「かふんしょう?」
「え? 知らない?」
かくり。「くしゃみでるの?」
「そう、アレルギーでさ。」
かくり。「あれるぎい?」
ペンネが首を傾げるたび、どんどん頭がカーペットに近づいていった。そしてついには、日なたの猫のようにごろんと身を崩して横寝した。のばした二の腕を枕に、じぃっとこちらを見つめてくる。バスクシャツの裾がめくれて、小さなへそが覗いていた。
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ペンネの描写ですが、「アザミのようにぱっちり華やいだ目」というように、目つきを強調しています。
ペンネ初登場のときの描写にも「握り拳をぱっと開いたような睫毛の映えた大きな瞳」という表現がでてきます。
このあとでてくる「ヌグ」というキャラがジト目系なので、それとは対照的に、ぱっちりした目で、うきうきと物怖じせずに人を見つめるキャラにしたかったのです。
まぁ、身も蓋もないことをいえば、二次元の美少女キャラは大抵みんな目がぱっちりしてるんですけどね……私なんか
グリコ・森永事件の「
キツネ目の男」みたいな目をしてるのに。
余談ですが、マンガやアニメなどでもそうですが、ライトノベルにはヒロインの髪の色をどうするかという悩ましい問題があります。
いうまでもなく日本人の多くは黒髪であります。しかし、でてくるキャラがすべて黒髪だと絵的に映えないので、ピンクや青などの実際にはありえないような髪の色に設定されることがあります。
ペンネの場合も、当初から「青髪のストレートロング」というデザインを想定していました。
イラストレーターの
れい亜先生には、本当にすばらしいイラストを描いていただきました。
しかし、イラストでは美しい青髪のキャラとして描かれていても、それを文章で描写するとき、果たして「青い髪の~」というふうに書いてしまっていいのか、という問題があります。
担当編集の方からも、「文章でペンネの青髪に触れたほうがよいかも?」というような指摘をいただき、どうしようかと考え込んでしまいました。
これはリアリティに関わってくる難しい問題です。
たとえば金髪や茶髪であれば現実にも存在する色ですから、素直に文章で「金髪の~」と書いてもいいと思います。本作でも、このあとでてくる「ヌグ」というキャラが金髪なので、文章でもそのように描写しています。
銀髪というのも、色素の薄い白髪の一種のような感じでロシアあたりにいそうなので、そのまま銀髪と書いてもいいかもしれません。
赤髪も存在しますね。
しかし、青髪やピンク髪や紫髪や緑髪などは、実際に存在するとは考えにくい。
ピンク髪は、まだ赤髪の一種と考えられなくもないですが……しかしパステル調のピンク髪というのは現実には見たことがありません。
私がこれまでいろいろな作品を読んでみたところ、いくらイラストではそのような色に描かれていても、小説中ではそのことに触れないことが多いようです。
触れたとしても、「色素の薄い色」とか「不思議な質感の髪」などというように、ちょっとぼかした書かれ方をしてあります。
とくに日本を舞台にした作品の場合は、触れないことが多いと思います。ファンタジー作品であればそういう色もありえなくはないでしょうが……。
しかし
赤松中学氏の「
緋弾のアリア」では、ヒロインのアリアを文章で描写するとき、「ピンクの髪の~」というように書かれてあっておどろきました。
二巻か三巻がでたあたりでご本人と会ったとき、気安さからつい「あれ、ピンクの髪って文章で書いてあるけどいいんですか?」とぶしつけに尋ねたところ、「いいのいいの、設定的な裏付けがあるから」と仰っていました。
そのように設定的な裏付けがあるのであれば、そのまま書いてもなんら問題ないと思います。
しかしそうでない場合は、やはり特殊な髪の色は明言しないほうが無難なのでは、と思います。
なので、ペンネについては、青髪という部分には触れないようにしました。
しかしこれも一つに考え方にすぎませんから、作家や作品によってべつのやり方があっていいと思います。
私も将来的に考えが変わるかもしれません。ヒロインの描写を「無難」で処理していいのか、という疑問もありますし。
髪の色と同じ問題に、虹彩をどうするかというのがあります。
いわゆる「目の色」ですね。黒目のまわりの部分です。日本人の場合はほとんどが茶色ですが、これも二次元メディアでは青や緑や赤という色が使われたりします。
九十年代のアニメやエロゲーなどでは、カラフルな髪の色や目の色がたくさんありました。
いわゆる「アニメ塗り」という、はっきりした塗りが多かったので、とくに派手に見えました。
しかし最近の作品では、髪の色については比較的落ちついた、リアルなものも増えている印象です。
とくに学園物では、昔と比べて黒髪キャラの比率が増したように思います。
ほかの色といえば、地味めの茶髪だったり、外国人やハーフのキャラが金髪だったりするぐらいです。
青髪や緑髪にしても、地味めな色合いにして「黒髪がそう見えてるだけだよ」というふうな描かれ方をしていることが多くなりました。
しかし、たとえ黒髪キャラであったとしても、目の色についてはいまも、緑色だったり青色だったり紫色だったりとカラフルであることが多いです。
やはり絵的なことを考えれば、目の色は多彩なほうがいいと判断されているのでしょう。
とくにアニメでは目のクロースアップがあったりしますから、色のちがいが目立つのです。
通常、そういった点はほとんど視聴者には意識されませんが、目の色や髪の色が作品のキーワードになっている場合は、ちょっと困ったことになります。
たとえば「
きんいろモザイク」というアニメの場合、イギリスからやってきた白人の女の子「アリス」が金髪碧眼という設定で、まわりからその髪や目の色を褒められるのですが、友人の一人である「綾」という女の子も、日本人でありながら画面では思いっきり碧眼なんですね。
髪の色も青い感じなのですが、これは「青く見えるけど黒髪だよ」ということにするとしても、目の色についてはどうにも解釈に困るところです。まわりのキャラたちも、アリスの碧眼は話題にしても、綾の碧眼についてはスルーします。
以下は、二期の「
ハロー!!きんいろモザイク」の3話冒頭より。


綾にドッキリをしかけるアリスが、「じつは髪も染めてるし、この瞳もカラコンなの」と自身の碧眼に触れるシーン。それを見ておどろいている綾の瞳も、画面では思いきり碧眼です。
そこら辺の齟齬は見て見ないふりをするのが日本の視聴者なのですが、まだアニメ表現のコードをわかってない外国の視聴者などは、「日本人なのに碧眼じゃないか!」といったりします。
こういうとき私は、自分を納得させるために、昔どこかで読んだ縄文人の話を思いだすことにしています。
一つの仮説にすぎないのですが、一万年前の縄文人たちは碧眼だったという説があるようです。
いまでも東北の一部には目の青い人たちがいるという話も聞きますし、きっと綾のような碧眼キャラは、縄文の血が濃いのでしょう!
碧眼の日本人にも根拠があるのです!(ということにしましょう)
さて話を変えて、上記引用文の最後に「バスクシャツ」という単語がでてきます。
第1回の解説では、ペンネの服装についての解説をわすれていました。それを以下の引用文で解説します。
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幼い顔立ちで身長も低いが、しかし体つきはちゃんと思春期を迎えていた。ショートパンツからは、はじけるような瑞々しいふとももがのびている。
上は、白地に青い横縞(ボーダー)の入った長袖Tシャツ。日本で〝バスクシャツ〟と呼ばれているもので、襟ぐりの広いボートネックとなっている。ペンネの着ているのは大きめのサイズということもあって、首筋から鎖骨まで広く露出している。しかも体が斜めになっているせいで、さがっているほうの肩がボートネックから抜けそうになっていた。
そのシャツの胸部に、高橋の目は釘づけになる。豊かに盛った胸がシャツを押しあげ、そのせいで平行のはずの横縞(ボーダー)柄が波打っていた。
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上記は第1回にでてきた文章ですが、バスクシャツの説明としてはこれで一応わかるのではないかと思います。自分としてはもっといろいろ語りたかったのですが、服に興味ない人にはどうでもいいと思うので、控えめにしました。
作家のなかにも、自分の趣味を作中でガンガン書きたいタイプと、あえて控えめに書くタイプがいます。
自分の場合は後者で、好きなことを書くととめどなくなるので、いつも控えめにするようにしています。
日本ではバスクシャツといえばフランスのイメージがあり、いくつかのメーカーがだしていますが、じつはフランス本国ではバスクシャツだなんて呼ばれてないみたいなんです。日本人が勝手にいってるだけみたいです。
ペンネの着ているものは、「
Saint James」というメーカーの「
Naval」をイメージしています。(ボーダーの色は水色)
ただ、あくまでも文章のイメージですので、イラストではアレンジをくわえていただいています。
下はノンブランドの黒いショートパンツをはき、靴はレッドウィングの「
RW-2268」というエンジニアブーツのイメージです。
どうしてこの恰好にしたかというと、バスクシャツはペンネの胸を強調するのに便利だからです。
ブラをしてないのに襟ぐりの広いシャツを着るのがいいのです。(真剣)
ペンネ的には、バスクシャツは脱ぎ着が楽で、絵を描くときにも邪魔にならないから選んでいる、という設定です。ふつうの長袖シャツよりも袖がちょっと短めなので、絵描きにとっては都合がいいのです。ちなみにパブロ・ピカソもバスクシャツを愛用していたようです(写真が残っています)。
また、エンジニアブーツはバイク乗りによく使われるブーツなのですが、ペンネの設定上、かつて馬に乗っていたというのがありますので、そこからの連想でエンジニアブーツになりました。
バスクシャツとエンジニアブーツは自分も持っていますので、書きやすいというのもあります。(さすがにショートパンツは持ってませんが)
上記の情報を交えながらペンネの容姿を描写していくわけですが、どの部分から書いていくか、いつも悩みます。
アニメでよくある演出として、ヒロインの足元からゆっくりとPANアップ(ティルト)していって、最後は顔を映して止める、というものがあります。
ベタな撮り方といえるでしょうが、でもかわいいんですよね。
むしろ、いろいろとカットを割ったりして技巧的にすると、キャラのかわいさが見えづらくなる可能性があります。
身も蓋もないいい方をすると、足元からゆっくり舐めるようにPANアップしていくのは、「視姦」するようなショットであるといえるかもしれません。
これを小説に応用して、ペンネをかわいく描写したかったのですが……できればもうちょっと視姦らしさをだしたかったところです。(ペンネの一連の描写は実際に小説の流れでご覧いただいたほうがいいと思います)
自分は外見描写をするとき、髪から書き始めて、つぎに目を始めとする顔立ちの雰囲気を書き、そのあと首や胸、といったふうに、上から順々に書いていく癖があるようです。足元からのPANアップとは逆ですね。
ふつう人間同士が向き合ったときは髪や顔から見始めると思うので、それが自然だとは思うのですが、「じらし」が足りないかと思います。
もうちょっとゆっくりと書いてやりたいと思うのですが、ページ数の問題と、「ほらかわいいでしょ? 美少女ですよ!」という書きぶりがどうにも気恥ずかしく、なかなかうまくいきません。
これからの課題ですね。
第2回の解説にもどります。
といっても、ヌグがでてくるまでとくに解説することはないのですが。
高橋とペンネが文庫本換算で七ページぐらいしゃべっているのですが、ここら辺はペンネのキャラをあらためて読者に提示する部分です。
第1回解説でも書きましたが、私は頭が古いので最初にメインヒロインをはっきりと示して、主人公と馴染ませたがるようです。
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そこへ、ぽーんというチャイムが飛び込んできた。
「あっ、ぽーって鳴った。」
ペンネがよちよちと立ちあがり、ペンギンのような足どりで玄関へ向かった。
助かった、と高橋は胸を撫でおろした。
そして一つ咳払いすると、羞恥をごまかすため、あえて強気をよそおった。
「まちなさい! まだえいぷりゅ、えいぷりうゅーりゅの話は終わってないぞっ!」
嚙み嚙みで追いかけていくと、ばったり、熊と遭遇した。
ヌグ、脱ぐ「逃げるなっ! どうせえいぷりゅで嘘をつくんなら、東大生(俺とはいってない)がびっくりするような嘘をついてみせろ!」
そういいながら追っていくと、ペンネが玄関でエンジニアブーツに素足をつっこんで、ドアをあけていた。高橋も彼女につづいて通路へ飛びだした。
「どうせなら人喰いUMAが襲ってきたみたいな壮大な嘘を、」
「がおー。」
毛むくじゃらの生物が、両手をふりあげて平坦に叫んだ。
熊だった。
――――――――――――――――――――――――――――――
熊の着ぐるみを着た「ヌグ」の登場シーンです。
ここでは一行空きを挟んで、
ステープリング・テクニクスの「
場面反復法」を使っております。
くわしくは当該ページの解説をご覧いただきたいのですが、ようするに、一度「嚙み嚙みで追いかけていくと、ばったり、熊と遭遇した。」と結果を提示したあと、一行空きを挟んで、時間が少しもどってもう一度同じシーンがくり返されるというものです。
ヌグの登場シーンを強調させるために、二回おこなっているわけですね。
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とれた熊の頭の下から、鮮やかな金色(こんじき)がわきでた。
二つ結びにされた、長い金髪だった。髪の一本一本がとても細く、さらさらと乾いていながらも、濡れたような光沢をはなっている、作り物めいた不思議な質感だった。
前髪の下には、ジトっとした上目遣いの青い瞳。つんっと上向いた形のよい鼻。むすっとへの字に結ばれた薄桜の唇。
人間だ。女の子だ。どうやら熊だと思っていたものは着ぐるみだったらしい。よく見ると遊園地にいそうなファンシーなデザインで、本物の熊とまちがえるほうがおかしい。
背丈はペンネより低く、一四〇センチていどだ。首から下は熊の着ぐるみをまとったままなため、ずんぐりとして見えるが、体型は細身だろう。小学生のようにも見えるが、目鼻立ちからすると中学生ぐらいだろうか。その不思議な質感の金髪と、宝石のような青い瞳、セルロイドめいた白い肌とのとりあわせが、西洋人形のようなできすぎな美を結んでいた。
(本物の熊がこんなとこにいるのは絶対に変だけど)(同じぐらい)(女の子が着ぐるみでいるのも変だよな……)
いやな予感が顔にでそうになるのを、ウミウシのようなケバい愛想笑いでごまかした。
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ヌグの描写です。
上のほうのペンネの描写の解説でも書いたのですが、「ほらかわいいでしょ? 美少女ですよ!」という書きぶりは少々気恥ずかしいものがあります。(西尾維新氏も雑誌かなにかのインタビューで同様のことを仰っていました)
なんだかここだけ浮いた感じになってしまうというか……。
昔、エロゲーの感想でよくいわれたことに、「エロシーンになると主人公の性格が変わる」というものがありましたが、それに近いものがあります。
ヌグはいかにも白人という雰囲気の描写ですが、人種や国籍については明示されておりません。
1話にでてきた「番人」も、陽に灼けたイタリア系のような雰囲気なのですが、人種は書かれていません。
ペンネにしてもそうですね。
みんなニックネームで呼び合っているので、名前からも人種がわからないようになっています。
これはペンネの「勇者」設定にからんだものでもあるのですが、それ以外にも、「外人キャラ」という色がつくことを嫌ったためでもあります。「人種もよくわからない妙な連中が騒いでる」という、無国籍でカオスな感じをだしたかったのです。
話は変わって、上記引用文の最後にある「ウミウシのようなケバい愛想笑い」という比喩は、どこか室生犀星の「うどんのように笑った」という比喩のような、妙な感じがあります。ほかにも「和布蕪(めかぶ)のようにしどろもどろになる。」とか「とろろ昆布のように笑うしかなかったのだ。すっぱく、ふにゃふにゃに。」といった海産物系の比喩にハマっているのがこの辺りです。
こういうところに文章書きの楽しさを見いだしてストレスを発散させているのですが、ちょっと作者が楽しみすぎているかもしれません。
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「有害です。」
ぼそっと少女がさえぎった。
「男なんてみんな蛆がわいてます、腐臭をはなってます、サルモネラ菌だらけです、燃やすとダイオキシンとかでます、近よるといろいろ伝染します、危ないです。」
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「有害です。」はヌグの口癖として、企画当初から設定していました。
ちなみにペンネの口癖は「うりゅ?」というのと、第3回にでてくる「なっと~の歌」です。
私は高校生のときからKeyのゲームのファンで、「Kanon」と「Air」をプレイするためにわざわざ製造終了後のドリームキャストを買ったぐらいなので、どうしてもキャラに口癖をつけたくなるようです。ほかにもキャラの「好物」を決めたりとか。
私みたいな作り手はいっぱいいるでしょうね。
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高橋の愛想笑いが、太陽の塔のようなしかめっ面になった。
「なんだ、これは!」
両手を広げて叫ぶと、ペンネが困ったような顔をして、
「ヌグちゃんだよ。このマンションの一〇三号室の。」
――――――――――――――――――――――――――――――
このギャグ、最近の若い人に伝わるでしょうか……?
「
太陽の塔」は、いわずもがな
岡本太郎の代表作で、両手を広げた形をしております。
さらに生前の岡本太郎がテレビでやっていたネタ(決め台詞?)として、両手を広げた恰好で「なんだ、これは!」と叫ぶというのがあります。
それをパロったわけですね。
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「ごめん、じつは俺、まだ、」
\ハンッ/「東大? あぁ、あの凡人の行くとこですか(笑)」
「浪人生なんだっ、……え?」
なにかいま、すごい台詞が聞こえた気がする。
への字に結ばれていたヌグの唇が、せせら笑うようにつりあがっていた。
「世界大学ランキングではいつも二十位ぐらいのあそこですね(笑)。あまりに下のほうなので、一瞬どこかわからなかったです。」
「し、下のほう⁉」
「凡庸な官僚や御用学者ばかり輩出してるイメージですが、しかたありませんね。才能に恵まれない凡人が必死に勉強して入るところですから(笑)」
「ぼ、凡人⁉」
バカにされている。天下の東大がバカにされている。
――――――――――――――――――――――――――――――
いまさらですが、高橋という青年は二浪中の身であり、東大合格をめざしているという設定です。
第5回の更新でキャラたちによってほのめかされますが、これは赤松健氏の「
ラブひな」のオマージュです。
いわゆる「美少女同居もの」や「アパートもの」というのは世に多くありますが、私の世代はやはり「ラブひな」がその代表格でした(ラブひなはアパートじゃなくて下宿だけど)。
なので、そのオマージュとして東大にしたわけですが、ほかの理由として、東大であれば作中で名前をだしやすいというのもあります。
早稲田や慶応などの国内の私立大は、ちょっと作中で名前をだしにくいのです。
べつに私立大学の名前が出版コードに引っかかるわけではないと思うのですが、上記引用文のようにちょっと悪口めいたことを書くとき、やや申し訳ない気になります。
その点、東大であれば昔から日本の最高学府の象徴となっていますし、「ラブひな」だけでなく、「東大一直線」や「野望の王国」など多くの作品で使われております。
なにより、日本人であればだれしもが「天下の東大」のすごさを知っていますので、悪口を書いたとしても笑ってスルーしてくれると思うのです。
――――――――――――――――――――――――――――――
高橋は一人立ちつくして、痴れたように笑いつづけた。
穴があったら入りたい。いや、坑めて欲しい。どこまでも深い、地の底へ。
「そうして地層になりたい……だれにも見つからない静かな地層に……」
――――――――――――――――――――――――――――――
じつはここ、当初はパロディとして書こうとした部分です。
「
筋肉少女帯」に、「
踊るダメ人間」という曲があります。
昔から好きでよく聞いていたのですが、そのなかに、
「いつかカモメになれるのでしょうか? もしもカモメになれないのならば 僕は静かな地蔵でいたいな」
という歌詞があります。(説明のために引用してるのでJASRACさん怒らないでね)
しかし私はずっと、「静かな地蔵でいたいな」のところを「静かな地層でいたいな」だと勘ちがいしていました。
曲を聴くたびに、「カモメと地層を対比させるなんて、オーケンはマジ天才だ!」と感心しておりまして、上記のギャグを書くときに、さりげなくこの歌詞を匂わせる台詞にしてやろうと思ったのです。
本作の冒頭にカモメもでてきますから、窓の外を飛んでいるカモメを高橋が見ながら、「地層になりたい……だれにも見つからない静かな地層に……」みたいにいわせてやろうと。
歌詞をそのまま使用するわけじゃないので、これならJASRACさんにも怒られないだろうとニヤニヤしていたのですが、あらためて歌詞を見てみたら、「地層」ではなく「地蔵」だったことを知り、パロディにならなくなってしまいました。
がっくりきましたが、事情を知らない担当編集の方が上記のギャグを見て「おもしろい」といってくれたので、まぁよいかと思っています。
――――――――――――――――――――――――――――――
「へぇ、うまい。でもペン入れとかは?」
「鉛筆の線だけでも印刷できるです。ナウシカの原作と同じです。」
「アニメの? あれ原作なんかあるんだ?」
\ちっ/「そんなことも知らないから東大ごときに落ちるです。」
「か、関係ないでしょ!」
「ニートにかかずらってるひまはないです。」
ヌグがすっくと立ちあがり、もぞもぞと脱皮するように身をよじった。すると、首から下を覆っていた熊の着ぐるみが、肩からずり落ちた。
白いタンクトップを着た上体が露わになる。
横幅や凹凸を欠いた体型だ。胸から下がすとんと落ちているため、頭ばかりが目立ってなんだかこけしのようだ。しかし、球体関節のように円みを帯びた肩口や、タンクトップから露出した二の腕の肉づきに、若草の色気が感じられた。透き通るような白い肌が、内側から闊達に光をはなっているような瑞々しい肉体だった。
――――――――――――――――――――――――――――――
ペンネが鉛筆だけでマンガを描いているという設定は、上記のように宮崎駿氏の「
風の谷のナウシカ」の原作マンガの描き方を参考にしています。
宮崎氏も当初はカブラペンなどでペン入れをしていたようですが、途中からは鉛筆書きのまま入稿するようになったそうです。ペン入れをするときのガリガリとした感触が手首につらかったようで、アニメーターでもある氏にとって、使い慣れた鉛筆のほうがスムースに描けるのでしょう。
鉛筆(とトーン)だけで描くという手法はあまり一般的ではありませんが、例がないわけでなく、美大卒の画力のあるマンガ家がたまにおこなっているようです。
ペンネの画力や画風も、マンガ版ナウシカに近いものをイメージしています。
宮崎駿氏はもともとマンガ家志望だったそうですが、マンガ版ナウシカの描き方はあまりマンガ的ではないと評されることがあります。
いわゆる「漫符」と呼ばれるものが少なく、コマのつながり方もふつうのマンガとは少々ちがいます。
個人的に、宮崎氏はアニメにおける「レイアウト」の発想で一コマ一コマを描いていたのではないか、と推測します。
手塚治虫がアニメや映画や戦前のマンガを参考にしながら、「マンガを動いているように見せる」テクニックを開発していったこととは対照的に、宮崎氏のマンガは、動画になることを前提としたようなレイアウト的な雰囲気が漂います。
庵野秀明氏いわく、宮崎氏は世界一のレイアウトマンだそうです。(もののけ姫を批判する文脈で、どこかでそう仰っていました)
そもそもアニメ制作に最初にレイアウト過程を持ち込んだのが高畑勲氏と宮崎駿氏で、「アルプスの少女ハイジ」からだといわれております。
おどろくべきことに(恐るべきことに)、ハイジの全話全カットのレイアウトを宮崎氏一人で描ききったそうです。
他人の描いた絵コンテを修正しながら、小物や建物のデザインなどもおこない、完成したレイアウトを背景と原画家にまわしていたそうです。
現在のアニメ制作のシステムですと、それぞれのカットのレイアウトは原画家自身によって描かれることが多いですから、すべてのカットのレイアウトを一人で担当するというのは、まさに超人的な仕事といえます。テレビアニメでも一話あたり三百カット前後あるのですから。
その仕事が、のちのマンガ版ナウシカに生かされたということかもしれません。
ペンネのマンガも、漫符を使ったものではなく、ふつうのマンガとはちがう雰囲気のものを想定しています。
もともとペンネは「あっちの世界」では画家志望であったので、ふつうのマンガの描き方を知らないのです。(ここら辺の設定はのちのち解説します)
上記引用文の後半は、ヌグの体の描写です。
ここでも、「ほらかわいいでしょ?」という書き方になっていて少々気恥ずかしいのですが、わりとヌグの特徴である「人工的・人形的な感じ」がだせたかと思います。
あとででてくるかと思いますが、ヌグは体臭もぜんぜんないという設定で、じつはそのモデルは私の実家で飼っていた「ユキ」という猫だったりします。おなかに顔をうずめてもぜんぜん匂いのしない不思議な猫でした。
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「どこへ?」
「手伝ってくれるの。食べるとこのテーブルで。」
カーペットに足を広げて坐ったペンネが、下敷きを使って原稿を描きながらいった。
「なんだっけ、トーン? とかゆうの。色とか塗るのもあるから、それやってくれたり。」
「連載のため?」
「みたい、ね。んとね。」
他人事のようにいって、ペンネが腰をあげた。そして部屋の隅に積みあがっている服を払って、その下に埋もれていたマンガ雑誌を持ってきた。
大手出版社が発行している、かなり有名な隔週雑誌だ。
受験勉強ばかりしていた高橋はあまり読んだことはないが、青年向けに分類され、画力の高い実力派のマンガ家が多く連載していると聞く。
「これに載ってるんじゃない?」
「じゃない? って、」
「ボク、そーゆうの興味ないんだ。」
「は?」
「どーでもいいんだ、べつに。雑誌に載せるようになったのも、ここの一〇五号室の人に勧められたからだし。」
「???」
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高橋とペンネのあいだで、比較的短いやりとりがおこなわれる場面です。
特別な場面ではないのですが、けっこう書き直してます。
二人の会話に、なるべく余計な情報をつけないように気を配りました。
台詞(と会話)の書き方について、私はここ最近、考え方が変わってきました。
かつては、小説というのは不便なメディアで、台詞を書くのに向いていないのでは、と思っていました。
実写映画や舞台などでは、役者が台詞を発してくれます。
アニメやゲームでも声優が声を当ててくれます。
そこに「肉声」があるわけで、声の種類はもちろん、抑揚やタイミング、感情などをしっかりと示すことができます。
小説はそれができません。
マンガも小説と同じく肉声がありませんが、小説よりも多用な台詞の表し方があります。
たとえば、ふきだしの形を変えて声の雰囲気をだしたり、ふきだしのなかのフォントを変更したり、ふきだしの外に手書きで台詞を書いたり……なによりも、しゃべる人間の顔が描かれますから、「どの人物が、どのような表情でしゃべっているか」が一目でわかるのです。
小説の場合は、どうしても台詞を書く手法が限られてしまいます。
マンガに近づけて、フォントを変えて書いたりする手法もありますが、マンガとちがって地の文という存在があるため、フォントを変えた部分だけ浮いてしまって不自然になる恐れがあります。(うまく使えればそのやり方もありだと思いますが)
フォントを変更して書くのは「タイポグラフィー」と呼ばれ、日本では大正時代前後からある古い方法です。たとえば新興芸術派の
久野豊彦の作品などは、文字サイズを部分部分で変えたりしてあります。
小説の台詞の弱点として、「台詞だけでは発話者がわからない場合がある」というのもあります。
マンガやアニメではその心配がありませんし、ノベルゲームの場合も、キャラの立ち絵が表示されますから、だれが発話者がすぐにわかります。最近のノベルゲームの多くは声優が声を当てているので、その点でも明らかです。
しかし小説の場合は、地の文などで「と、○○はいった」などと書かないと、発話者がわからない場合があります。
もっとも、日本語はその特性上、一人称や終助詞の変化が豊富ですので、英語などよりは発話者が特定しやすいです。
「私・オレ・僕・あたし・儂」などの一人称で変化をつけられますし、「藍上は」といったように自分の名前を一人称として使うこともできます。
また、「~だぜ・だわ・ですわ」といったように終助詞の変化によっても、発話者を特定できます。
さらには、漢字とひらがなの割合を変えて、変化をつけることもできます。(子供がしゃべるときはひらがなを多くするなど)
翻訳家の金原瑞人氏の「
翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった」によると、英語ではそういう変化をつけるのが難しいそうです。台詞だけとりだしても、発話者が男性か女性かもわからないことがあるのです。
そのため英語の小説では、たとえば女性の台詞の場合、「彼女はいった。(She said.)」という説明文をつける必要がでてきます。
そういう文を日本語に飜訳するときは、日本語の特性上、「あたし~だわ」というような台詞の書き方をすればそれだけで女性の台詞だとわかるはずなのですが、原文を尊重して「彼女はいった。」という地の文も飜訳して残すので、どうにも台詞の間が悪くなってしまう――というより間抜けに見えてしまう――ときがあると思います。
70年代あたりから、アメリカ文学に親しんだ日本の作家が多く登場して、日本語で書かれているのに「と○○はいった。」と頻繁に書く作家が増えました。(明治のころからありますが、とくにアメリカ文学の影響が強くなってから増えたように思います)
「と○○はいった。」をつけることによって会話の間を調整するという効能はあると思いますが、個人的にはあまり好みではありません。
私も文章の流れからやむなくつけることはありますが、多用はしないようにしています。
ほかの言語と比べれば、まだ日本語は台詞を書くのに向いているのではないでしょうか。
とはいえ、映像メディアと比べると、文章だけの小説は、やはり台詞のニュアンスを伝えるのが難しい。
また、台詞というのはただしゃべるものではなく、なんらかの行為をしながらしゃべることが多いのですが、小説ではその点でも不利なところがあります。
地の文で行為を描き、その前か後に台詞がくるわけですから、どうしても行為と台詞のあいだにタイムラグが生じてしまいます。
私がまだデビューして間もない二十代前半のときですが、よく東京まで出向いて作家たちと飲み会を開いていました。
私は酒は飲まないのですが、創作論議をしたいがために参加していました。
そのなかで話題になったものの一つに、「小説の場合、よく決め台詞がすべるよね」というのがありました。
マンガやアニメなどと比べて、小説ではなかなかバチッと決まりにくい気がするのです。
当時はみんな「描写のしかたに問題があるのだろうか」とうんうん考えていたのですが、いまから思えば、「行為」と「台詞」とのタイムラグが原因の一つな気がします。
アニメやマンガであれば、「行為」と「台詞」が同時に発せられ、受け手に認識されます。決め台詞が、しっかりと行為と結びつき、「板につく」わけです。
しかし小説の場合ですと、どうしても地の文の「行為」と「台詞」のあいだにタイムラグが生じ、台詞が浮いてしまうことがあるのです。
とくに決め台詞のような、ビシリと一瞬で決めなければならない強い台詞ほど、そのタイムラグが深刻になってきます。
純文学では決め台詞というものはあまりありませんから、台詞の強さによってタイムラグが問題になるということはなかったのかもしれません。(純文学にも「殺し文句」のようなものはありますが、むしろ地の文にそれが多いように思います)
もちろん決め台詞がかっこよく決まっている小説もありますので、決して不可能というわけではないのですが、やはりこのタイムラグの問題は一考にあたいすると思います。
逆にいえば、小説表現にはもっともっと工夫の余地があるということです。
タイムラグを解消する一つの方途として、いっそのこと地の文と台詞とをきっちり切り離してしまう方法があります。
台詞の前後行を一行空きにして、台詞だけを際立たせるわけです。
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彼は腰に手をやり、
「ここがお前の墓場だ!」
そういって剣を抜いた。
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というような書き方ですね。(例文がださいのはスルーしてください)
これは、それまでつづいてきた地の文の流れを一度断って、ぽんと空白に台詞だけを放り投げるような書き方です。視覚的にも文脈的にも、読者の意識は台詞に向けられ、地の文は後景化します。
地の文と台詞のタイムラグを埋めるのではなく、タイムラグをあえて明示して台詞を浮かせることによって、決め台詞を成功させるわけです。
いまのライトノベルではよく見られる書き方ですが、それは京極夏彦氏の影響が強いのでは、と個人的に思っています。
むろん京極氏の登場以前からこういう書き方はあったのですが、京極氏はとくにこの「前後一行空きの台詞」を有効に使っておられます。
また、京極氏の影響を受けた奈須きのこ氏や西尾維新氏らによってもこの書き方が広まったと思います。京極作品を読んでない作家でも、奈須作品や西尾作品によって、間接的に影響を受けているわけです。
この手法はわりと簡単にまねすることができる上、効果も実感しやすいので、私もこれまでよく使わせてもらいました。
ただ、なにごともそうですが、一見同じことをしているように見えても、熟達した作家と未熟な作家とでは、やはり細かい部分に差異が生じ、その効果にも開きが起きます。
前記の各氏と比べ、私はこのやり方はあまりうまくできていないように思います。
また、多くの作家がこのやり方を使うようになってからは、読者も慣れてしまい、あまり特別な効果がでなくなってしまう可能性もあります。
わかりきった書き方に見えるゆえに、台詞が安っぽくなってしまう恐れがある。
なので、私は以前ほどはこの書き方をしなくなりました。
まったくやらないというわけではなく、ほかの方法が適合できる場合は、そちらを使おうと思っています。
タイムラグの問題については自分もまだ研究中なのですが、台詞の書き方を少しでも広げようと、
主副並行会話文といったものを考えてみたりしました。
小説は台詞を書くのに向いてないから、ほかのメディアを参考にして少しでも発展させよう、と思っていたわけです。
しかし最近はまた考えが変わりつつあります。
小説は、たしかに具体的な発声を伝えるという部分では向いていませんが、逆に「抽象性」を武器にできるのではないかと思うようになったのです。
不必要な情報を削って、純粋な「文字としての台詞」を書くことができるのです。
これは、読者がそれぞれ台詞のタイミングやスピード、声の質などを想像できるということです。「創造」といってもいいかもしれません。読者の能動的協力なしには、小説の台詞はその役目を果たしきれないのです。
この「読者の能動的参加」は、「キャラクターを立てる」ということにとっても非常に重要である、というのが私の意見です。
ライトノベルに魅力的なキャラクターが多く存在するのは、台詞に限らず小説全体の特性である「抽象性」と、その抽象性を解釈するために読者が能動的に作品参加するからではないか、と思っています。
ここら辺をくわしく語りだすとまた長くなりますので、また機会をあらためて説明をさせていただこうと思います。
以前の私は、「小説の台詞には具体性がないから不利」と思っていたため、なんとか台詞の表現の幅を広げようと躍起になっていました。
台詞の前後につく地の文についても、なるべく発話者の情報を具体的に示そうとしていました。
しかし上記のことに気づいてからは、逆に「小説はその抽象性を利用することによって、魅力的な台詞や会話を書くことができるのではないか」と考えるようになりました。
思い起こしてみれば、私が小説を読んでいて「よい台詞(会話)だなぁ」と思うものは、たいていが情報量が少ないものでした。
決して地の文でごちゃごちゃ説明したり、台詞にわざとらしい強調を入れたものではありませんでした。
読者としての私は、作者から「よい台詞」を押しつけられるのではなく、頭のなかで台詞をふくらませて「よい台詞」を創出していたのです。
記憶に残っている印象的な台詞をたしかめようと、昔読んだ本を再読したとき、その台詞が意外なほど簡単に書かれているのを見ておどろいた経験が何度もあります。
「あの台詞って、こんなにそっけなく書かれてたんだ」という経験は、みなさんにもあるのではないでしょうか。
丁寧に書けば書くだけ、台詞以外のところが目についてしまって印象がぼやけてしまうことがあるのかもしれません。
なので、最近では台詞を書くとき、あえて言葉を放りだすような、そっけないくらいにするよう心がけています。
一つ一つの台詞に注力するのではなく、一連の会話を通じてさりげない魅力が漂えば、それがよい台詞(会話)なのではないかと思うようになりました。
作者だけの力でその魅力をだしきろうとするのではなく、読者側の力によって、魅力的に想像(創造)してもらうのです。
主副並行会話文などは、会話の結び目やアクセントのような役割になれればいいのではないかと思います。具体的に示すことに主眼を置いてしまうと、小説の場合はかえって魅力を減じてしまうことがあると思います。
上記引用文では、当初はもっといろいろと台詞に情報を盛り込んでいたのですが、推敲によってかなりシンプルにしました。
ちなみに、上記引用文にある、ペンネがマンガ連載をしている「大手出版社が発行している、かなり有名な隔週雑誌」のイメージは、「
ヤングガンガン」などのガンガン系の雑誌です。
私は衛藤ヒロユキ氏の「
魔法陣グルグル」を小学四年生のときに読んでから、ずっとガンガン系のマンガ雑誌を愛読してきました。
思い出がいっぱい詰まっていますし、いまでも大好きです。
私の世代(1985年生まれ前後)は、とくにガンガン系の雑誌に愛着がある人が多いのではないでしょうか。
九十年代にガンガン系で連載していたマンガは、「萌えの歴史」を語る上で欠かせないものだと私は思っているのですが、ここら辺は語りだすとまた長くなるのでべつの機会に。
いまさらですが、それだけ愛しているガンガンの媒体に、自分の小説を連載できたなんて、夢のようであります。
第2回の解説は、以上になります。……長い!
第3回の解説はこちら。