• 星新一の文体による「そしてこうなった」のドラマツルギー
    最近、思い立って星新一の作品を読み返したりしています。生涯で千作以上の作品を残した人だから、当然まだ読んだことのない作品も豊富にあって、勉強になります。そこで、評論というほどのことではありませんが、思ったことを少し。星新一作品については、よく「発想」や「オチ」がすばらしいと称えられます。しかし自分は彼の魅力は、必ずしもそこにはないと思っている。星は、しばしばフレドリック・ブラウンと比較されるように...
  • 『表現の強さとはなにか?④』娯楽におけるリアリズム(最終回)
    過去に三度、『表現の強さとはなにか?』と題してシリーズで記事を書いてきました。(①・②・③)この最終回では、これまでのことを踏まえて現時点での自分の答えを書いてみたいと思います。連載二回目の記事で、「文章で説明した内容の必然性を、読者に訊かれたら説明できるようでなければならない」こういう二重の「説明」の意識があれば、よけいなことは書かなくて済むのではないか。(オッカムの剃刀に近い考え)と書きました。...
  • 『表現の強さとはなにか?③』物語の自動化に背く
    前回の続きです。三回目は、アニメをとりあげて表現の強さを考察してみます。創作には「おもしろい」だけでなく「強さ」というべきものがあるのではないか――それを考えるようになったのは、押井守監督が1994年に上梓された【METHODS ~押井守「パトレイバー2」演出ノート】という本と出会ってからでした。僕が読んだのはたしか2016年の1月だったかと思います。長らく絶版で手に入らなかったのですが、復刊ドットコムさんが復刊して...
  • 『表現の強さとはなにか?②』描写というマジックワード
    前回の記事では、小説に限らず創作においては「おもしろさ」のほかに「強さ」というものが必要なのではないか、という話をしました。ではその「強さ」とはなにか?そんなもの、ただの抽象的な言葉遊びなんじゃないの?という自己批判から今回の記事を始めてみます。僕は長らく、そういう抽象的で偉そうなマジックワードのせいで、創作の本質がわからなくなっているのではないか、と批判的に考えていました。(いま使った「本質」っ...
  • 『表現の強さとはなにか?①』完全燃焼の文体
    開高健が「完全燃焼の文体」という短い文章論を書いているのですが(全集13巻に収録されています)、そのなかでヘイエルダールの「コン・ティキ号探検記」とキャパの「ちょっとピンぼけ」を取りあげて、どちらの文章もすごく良いと褒めています。日本人の遊び場 (開高健全集)コン・ティキ号探検記 (河出文庫)ちょっとピンぼけ (文春文庫)「コン・ティキ号」も「ピンぼけ」も、文章を変に溜めたり捻ったりしないで、一文一文がすっ...